202310月 11周年シンポ 文字通訳テキスト (これは正式議事録ではなく、聴覚障害者等向けの当日文字通訳の記録です。)

 

(司会)ただいまより介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット11周年シンポジウムを開催します。

私は、弁護士の平下と申します。

本日の司会を担当させていただきます。

よろしくお願いいたします。

開会に先立ちまして3点ご案内します。

1点目です。

本日の資料は介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネットのホームページからダウンロードしていただきます。

今ご覧になっている画面のすぐ下のコメント欄に、ホームページのURLを掲載しております。

コメント欄を見られない方は、介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネットと検索していただければと思います。

なお、画面でも資料を映し出しますのでご参照ください。

2点目です。

画面上でも字幕が流れますが、お手持ちのスマートフォンまたはパソコンで文字通訳を見ながらご視聴いただくことができます。

文字通訳をご希望の方は、介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネットのホームページに記載されているQRコードからアプリをダウンロードしていただけご利用いただくか、またはWebブラウザからご利用ください。

ご案内事項は以上です。

それでは共同代表の藤岡毅より開会の挨拶を申し上げます。

 

(藤岡)介護保障ネット共同代表の弁護士藤岡毅です。

201211月に発足した当会はおかげさまで11周年を迎えることができました。

いつもご支援ありがとうございます。

昨年は1123日、台湾、韓国、日本の3カ国での同時オンライン中継によるシンポジウムを成功させました。

その3カ国、パネリストのコーディネーターを務めていただいた立岩真也立命館大学生存学研究所教授が今年731日お亡くなりになったという訃報を聞いたとき、私達も突然のことに驚きました。

当会の理解者であり、力強い応援団だった立岩真也先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

本日のシンポは、一般社団法人日本ALS協会の後援のもと実施させていただきます。

ALS協会様のご協力に御礼申し上げます。

本日の内容は、そのALS協会の会長に昨年5月に就任された恩田聖敬さん、そして私達介護保障ネットの共同代表に昨年9月に就任した岡部宏生の対談をメイン企画としています。

岡部も2016年から2018年にALS協会の会長を務めていますので、ALS協会元会長と元会長の対談ということになります。

いずれもALS当事者です。

岡部は、建築会社のサラリーマン生活20年を経て42歳のときに自分の事務所を立ち上げて独立しています。

恩田さんは、企業の現場職から経営トップに上り詰め、JリーグのFC岐阜の社長というスポーツの世界、企業の世界の出身者です。

ともすれば障害者の世界の常識は一般企業などとの常識と大きく違うところもあるのではないでしょうか。

障害者の人権の保障や障害者理解がなかなか進まない理由はなぜなんだろうと私も常日頃悩むのですが、そのようなほかの世界から障害者の世界にやってきたお2人の話は私達に様々なヒントを与えてくれるのではないか、そんな期待を持っての本日の企画です。

また、第1部のメイン企画に続き、第2部では、当会が支援している最近の介護保障事案の報告があり、一般には知られていない最新の情報に触れる機会ですので、ぜひ最後までご視聴くださいますようお願いいたします。

 

(平下)さて本日のシンポジウムは「社会で生きることと権利」です。

障害があってもなくても、社会の中でどのように生きるか、どこで誰とどのような生活を送るかを自分で決めることは人として生きる上で当然の権利です。

しかし実際には、障害があることを理由に、社会から切り離され、住み慣れた地域を離れて、病院や施設で生活することを強いられている人たちはたくさんいます。

本日のシンポジウムでは、13時半から1520分までの第1部でALS筋萎縮性側索硬化症の患者や家族の会である日本ALS協会の現在の代表、恩田聖敬さんと日本ALS協会の元代表で、当会の共同代表である岡部宏生を中心に、ALS当事者として生きることと介護を受ける権利について講演、
対談していただきます。

ALSという言葉を耳にしたことのある人は多いと思いますが、実際の生活や悩みなどを聞いたことがない方も多いのではないでしょうか。

2人からはご経験に基づくリアルなお話をお聞きできること、私自身楽しみにしております。

また、重度障害者が安心して暮らしていくことと当会の活動の意義についても触れていただけるかと思います。

15時半から17時の第2部では、介護保障ネットのメンバーから事例報告を行います。

このシンポジウムを通して当事者支援者の双方の立場から、全ての人が社会で生きることに必要なものが何かということを一緒に考えたいと思います。

それでは早速プログラムの第1部を始めます。

 

 

初めに、コーディネーターの川口有美子さんから退団の趣旨の説明など簡単にお話していただきます。

川口さんは2003年から全国各地で深化する介護を実践し、20124月施行の喀痰吸引等研修の制度化に貢献されました。

また、ALSの患者や家族の葛藤を描いた「逝かない身体」で2010年第41回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞されています。

現在は全国でALSと重度障害重度難病者が、家族に依存せず福祉事業により介護を受けて生活することができるための活動を推進されています。

また、有限会社ケアサポートモモとNPO法人ALSMNDサポートセンターさくら会を運営されています。

川口さんのお話の後、恩田さん、岡部の順でそれぞれ基本的な講演を各自30分ほど行い、その後にディスカッションに入りたいと思います。

それでは川口さんよろしくお願いいたします。

(川口)ご紹介にあずかりました、川口有美子と申します。

今日は皆さんと、深いディスカッションができるのかなと思って楽しみにしてまいりました。

先ほど藤岡さんからもご紹介がありましたけれども、私どもの指導者であり、支援者でもあった立岩真也先生がこの7月にお亡くなりになりました。

それで、今日は、立岩真也さんの話されたことを振り返り、今重度訪問介護という制度がALSの患者さんも使えるようになっているんですが、大変なご尽力をいただきましたので、そのことについて私の方からご紹介させていただきたいと思います。

画面を共有させていただきます。

長くなってしまったので、この文章は後ほど当会のホームページとかさくら会の方にも貼り出したいと思いますのでまたゆっくりご覧ください。

まず立岩真也先生の経歴なんですが1960816日佐渡島生まれ。

享年62歳でした。

東京大学大学院社会学研究を学ばれその後、千葉大、信州大などを教鞭をとって、2002年から京都の立命館大学大学院先端総合学術研究科に入職されておられます。

2007年には文科省のグローバルCEO創成拠点の採択を受けて生存学センターを立ち上げました。

今研究所になっておりますがそこで、生老病医の倫理政策、エスノグラフィーなどを領域とする生存学ということを提唱されました。

常日頃から学者は講演に着くとおっしゃられておりました。

ALSとの出会いなんですけど、1998年にALS協会山梨県支部支部長であった山口衛さんに招聘されてそこで初めて全身性障害者の介護人派遣事業というものがALSにも使えるのではないかということを示唆されました。

そしてALS療養者に呼吸筋の選択と長期にわたって在宅で家族に依存せずに生存できる道を初めて示されました。

その件に関しては、長い引用があるのでここは省略させていただきます。

立岩先生は私的所有論という大変難しい分厚い本を書かれたんですがその中では主に出生前診断のことについて書かれているんですが、今、見つけたところによると、それは自分にとってはそれ以上のことは言えないと、むしろ自分にとっては自分が死ぬことを理解できる人間は死ぬという出来事の方が自分にも大きなことに思えたと、そういう決断をなぜしなければならないかということについて深く考えていこうということでALSの研究に取りかかったということを言われております。

山梨県支部の講演の後、私は2003年に立岩先生と出会いました。

そのとき私は、母の介護で大変疲弊していたんですが立岩先生の勧誘で自分で研究しなさいと言われ実に立命館大学に進学しましたところが、直後に、障害者運動に駆り出されることになりまして研究より運動の方に力を注ぐことになりまして、そのときに立岩先生が、日本ALS協会の全国運動の成果で在宅のALSの患者のみヘルパーの吸引が容認されていたということで一般の介護事業者はその当時はそれらのことは実施しなかったんですね。

立岩先生に相談したら、研究をしながらも、運動をしていきなさいということで、それからはずっと先生と一緒にいろいろな重度障害者の安楽死問題治療停止問題などを考え、また行動してきました。

橋本操さんがちょうど日本ALS協会の会長になられたということもありましたのでさくら会を法人化して進化する会が先ほど紹介がありましたけれども、ということを立ち上げてやってまいりました。

もう時間がないのでこの辺は、飛ばさせてもらいます。

立岩先生は、実践家としての顔もあって皆さんご存知ないんですけれど、ALS患者の在宅独居支援筋ジス病棟からの地域移行など各地のリーダーの方々の講演をされまして、インタビューなどで全国に足を運んだりされておられました。

大学院生に声をかけてALSの自薦ヘルパーを募ったり、事業所の設立の資金援助をしたりして、本当に亡くなる直前まで個人的に繋がりのある方々の支援をされて力を尽くしておられました。

本当に実践家としても尊い仕事を積み上げてこられた方です。

写真があるんです12月去年の1210日土曜日御茶ノ水の駅のホームで藤岡さんと3人でおどけて撮った写真があるんですけれど、これが最後の藤岡さんとは、今生の別れになってしまったときの写真ですけど、以上です。

また後で皆さんとお話に加わりたいと思います。

よろしくお願いします。

 

(平下)川口さんありがとうございます。

次は、恩田聖敬さんにご自身の経験についてご講演いただきます。

恩田さんは岐阜県のご出身で、2014年、当時のJリーグ史上最年少の35歳でFC岐阜の社長に就任しました。

現場主義を掲げ、チーム再建に尽力されました。

就任後ほどなくしてALSを発症し、翌年、病状の進行により職務遂行困難となりやむなく社長を辞任されました。

その後、株式会社まんまる笑店を設立し、現在ALS協会会長として講演研修執筆等を全国で行っていらっしゃいます。

それでは恩田さん、よろしくお願いいたします。

 

(恩田)それでは始めます。

皆さんこんにちは。

恩田聖敬です。

本日はお招きいただきありがとうございます。

よろしくお願いいたします。

まず、本日の流れを説明します。

1、自己紹介とALS2、私の現状3、妻との決意4、うさぎとかめ5、絶望への処方箋、このような流れです。

なお、今、皆様がお聞きの声は、まだ私が声が出る頃に私の声を録音して作ったボイスターというソフトによる私の声にそっくりな合成音声です。

この技術のおかげで本日も自分の声で皆様に話しかけることができます。

テクノロジーの進歩に感謝です。

それでは始めます。

1、自己紹介とALS最初に、プロフィールをご覧ください。

岐阜県山県市生まれ。

45歳。

学歴、職歴はこんな感じです。

京都大学京都大学大学院取締役社長これだけ見ると、超エリートですね。

けれど、実際にはエリートとは程遠い波瀾万丈の人生を現在進行形で歩んでいます。

文字通り、常に必死で生きた結果のプロフィールです。

ちなみにこんなにかわいかったんです。

面影はありますか?目だけですね。

ときの流れは残酷です。

続いて、私の人生の重要な分岐点をダイジェストで紹介します。

1999年京大に入ったのに、サークルにのめり込み、留年。

2004年京大大学院航空宇宙工学を収めるも、ベンチャー企業に就職し、ゲームセーター、店員に。

宇宙研究からUFOキャッチャーです。

2014年現場叩き上げて5年で、取締役になるも、全てのキャリアを捨てて、FC岐阜へ2015FC岐阜社長就任と同時期に、ALS発症するも、世間に隠して、社長続投、2016ALS進行に伴い、FC岐阜社長を辞任するも、新しく会社を作り、社長に就任。

いかがでしょう。

われながら、稀有な人生でした。

次は私を語る上で切っても切れないALSについてご紹介します。

それでは、こちらをご覧ください。

少しの間、想像してみてください。

想像してみてください。

ある日突然、手も足も頭も動かせず、話すこともできなくなる自分を想像してみてください。

どれだけ頭が痒くても、じっと耐えるしかないやるせなさを。

想像してみてください。

鼻水も汗も唾液も拭えず、垂れ流すしかない情けなさを。

想像してみてください。

どれだけトイレに行きたくても、自分でズボンを下ろせない惨めさを。

想像してみてください。

自分の子供を抱きしめることさえできない悲しみを。

想像してみてください。

好きな人が隣にいても、口説き文句も言えず、指1本触れられない切なさを。

しかし、私は絶望していません。

知覚、思考は奪われていないからです。

ALS 筋萎縮性側索硬化症これは体中の運動神経が侵される原因不明の病気です。

治す方法はまだ見つかっていません。

手や足はだんだん動かなくなります。

喉や舌は、筋力が落ちて喋れなくなっていきます。

そして、息をするのが難しくなってくると、人工呼吸器をつけないと死に至ります。

しかし、病気の影響は、運動神経だけです。

見る聞く、感じる、考える、思うといったことには、何の悪影響もありません。

体が動かなくても心には影響はない病気なので、私が私でいることに変わりはありません。

以上、自己紹介とALSでした。

2、私の現状ALSとは、明日皆さんが発症してもおかしくない病気です。

私はタバコは吸わない。

お酒は飲めない。

ブロッコリー以外、好き嫌いはない。

健康診断はいつもA判定と、極めて健康体でした。

そんな私が、ある日突然にALSになり、医者からは、あなたは何も悪くない。

ただ運が悪かっただけです。

と言われました。

理不尽極まりない話です。

しかし、いくら理不尽を嘆いても、ALSの進行は止まってくれません。

ここで大切なのが、「じゃあ、どうする?」の発想です。

例えば、利き手の右手を骨折したとします。

あなたは、箸が持てないからご飯が食べられない。

そう嘆きますか。

違いますよね。

スプーンを左手に持ったり、左手でおにぎりを食べたり、ご飯を食べる方法はいくらでもあります。

ALSを克服するためには、究極的に言えば、動けない、喋れない、食べれない。

呼吸ができない。

という四つの問題をクリアーすればよいのです。

右手の骨折と、考え方に変わりはありません。

現在私は、人工呼吸器をつけています。

次の写真を御覧ください。

これは、今の私の喉です。

人工呼吸器をつけるために喉に穴を開ける手術をしました。

おかげで
呼吸することは克服しましたが、代わりに声を完全に失いました。

というわけで、私は喋れません。

では、私はどうやって自分の意思を伝えているのでしょうか?今はボタンが押せるほど手が動かないので、口でiPadを操作しています。

口にチューブを加えて、チューブを噛む信号をボタンに送って操作しています。

この講演の原稿も口で書きました。

ずるはしていませんよ。

どんなに理不尽なことが起きようと、「じゃあどうする?」その発想があれば乗り越えられます。

以上、私の現状でした。

3、妻との決意私と妻は気管切開する時点で24時間、完全他人介護体制を作り上げると誓っていました。

退院カンファレンスでの支援者への宣言を、当時のブログを引用して紹介します。

気管切開しても、私は私です。

この度、3ヶ月入院して気管切開をしました。

今後の決意について、退院カンファレンスの挨拶にて表明します。

本日はお集まりいただきありがとうございます。

退院にあたって、皆様に2点申し上げたいことがございます。

一点目は、在宅生活についてです。

最初から高望みはしません。

まずは、在宅で健康に生きられれば、御の字だと思っています。

しかし、ゆくゆくは、講演などの仕事も再開したいし、家族でのお出かけもしたいです。

私が外に出て、ALSでも前向きに生きられることを世の中に発信することで、1人でも多くの人の背中を押すことが私らしい生き方であり、皆様への恩返しになると勝手に思っています。

皆様が、ケアのしがいのある男になりたいと思います。

2点目は、妻のことです。

皆様から見たら、妻は私のケアに消極的に見えるかもしれません。

しかし妻は皆様が関わる前には、私の全てのケアをしていました。

子供たちの顔もまともに見れず、私につきっきりの日々でした。

その結果、1年経たずに、妻の心は壊れました。

半狂乱にしばしばなり、死にたいと何度もこぼしました。

その地獄の中で、私達は思いました。

子供も含めて、家族の誰も犠牲にならずに生きるには、完全他人介護しかないと。

妻はいざというときは自分がケアしなければいけないことを重々承知しています。

ただ、家族だからケアするのが当たり前という言葉に拒否反応を示してしまうのです。

この中で、ALSになる前の私を知っているのは妻だけです。

私が妻に求める役割は、介助者ではなく、理解者です。

本来の家族の役割はそういうものではないでしょうか。

一般常識とかけ離れていることも、人的資源の乏しい岐阜県で完全他人介護を目指す困難さもわかった上で申し上げております。

しかし、誰かが理想を目指さない限り、犠牲者は、犠牲者のままです。

現実と理想のギャップを埋めるために、皆様のお知恵と力をお貸しください。

どうかよろしくお願いいたします。

いかがでしょうか。

これは5年前ですが、当時、岐阜県内で重度訪問介護を利用して、24時間介護を実現している方は皆無でした。

まさに私が先駆者として、前例を作りました。

一度前例ができれば進むもので、現在では、24時間まではいかずとも、18時間は重度訪問介護ヘルパーを利用できる方がちらほら現れました。

物事には常識外れな人が時には必要です。

以上妻との決意でした。

4、うさぎとかめこれまで、いろんな話をしてきましたが、次は、私の生き様についてお話します。

うさぎとかめうさぎとかめが競争する話は皆さんご存知だと思います。

結果は、かめが勝つわけですが、かめはなぜ勝てたのか。

うさぎが油断したから。

かめは諦めずに頑張ったから。

いろいろ理由はありますが、本質的な理由は何でしょう?うさぎは、競争をする上でゴールではなく、相手のかめを見てました。

だから、こんなやつに負けるわけないと、昼寝してしまいました。

一方、かめは、うさぎではなく、ゴールを見ていました。

競争の目的はゴールに向かうこと。

だから、自分の最速でゴールに向かいました。

うさぎが自分より圧倒的に速くても関係なく、やれることをやりきりました。

結果、カメが勝ったのです。

ここからわかることは、他人や周りがどうではなく、自分のゴールがどこにあるかを見据え、そこに自分の足で、一歩一歩進むことが大切。

いかがでしょう?そんなわけで、私の車いすには、今日もカメ子がいます。

いつもかめでありたいと思います。

皆さんも人に流されることなく、自分のゴールを見据えて、やりたいことをやってください。

これから皆さんと皆さんの地域の方は、たくさんいろんなことを経験します。

その中で、今思い描いている未来とは違う方向に向かうこともあると思います。

私もそうでした。

プロサッカーチームの社長をやることも、ALSになることも、夢にも思いませんでした。

人生は、テストとは違って、答えは一つではありません。

そして、選んだ道が正解かどうか、採点するのは、先生ではなく、皆さん自身です。

私は、人生は自分を好きになるためにあると思っています。

皆さんも自分に良い点数が付けられるよう頑張ってください。

自分を好きでいられる人生は間違いなく楽しいです。

以上うさぎとかめでした。

5,絶望への処方箋。

それでは、本日最後のお話です。

絶望への処方箋。

絶望。

辞書的意味なら、望みを断たれる。

辞書的意味なら、私自身何度も何度も絶望している。

私は、普通にトイレに行く望みを絶たれた。

妻以外の女性介助者に陰部をさらして、尿器を当てられ尿をして、週2回、看護師に浣腸され、肛門に指を突っ込まれ、便をかき出す。

私は、完全にプライバシーを守る望みを絶たれた。

私の持ち家にも関わらず24時間365日、他人がいる。

人には必ず家の中と外の顔がある。

24時間365日外づらを取り繕える人などいない。

結果子供を叱る姿や、散らかった家の中を他人にたよらざるを得ない。

子供たちももう少し成長したらストレスを感じ始めるだろう。

完全他人介護に踏み込む上で、私も妻も多くの望みを絶たれた。

夫婦だけの語らいの時間。

家族だけでの外出。

ALSにならなければ当たり前に送れたはずの生活。

誤解なきよう申し上げるが、私の完全他人介護サポートチームは我々夫婦の辞書的絶望を最小限に緩和する格別の配慮をしてくれている。

感謝にたえない。

外から見たら、私は、ALS患者の成功者だが、私も妻も、何度も何度も何度も望みを絶たれている。

では私はなぜ成功者に見えるのか。

私はこう思う。

どれだけ望みを絶たれ続けても、自ら望みを絶つことはなかったから。

私は自ら望みを絶たない限り、辞書的意味の絶望は、試練でしかないと思う。

必ず他に道はある。

私の師匠のALS患者が次のように述べている。

ALS患者は諦めることに慣れる。

私自身も、今の生活を手にするために数限りないことを諦めてきた。

想像を絶する葛藤がそこにはあった。

しかし、私には守るべき家族がいる。

私の講演を待っているお客様がいる。

本気で支えてくれる仲間がいる。

スペシャリストサポートチームがいる。

それを考えたら、のぞみを自ら絶つことなどできない。

うかうか絶望などしていられない。

いかがでしょう。

諦めない限り、絶望などありません。

というわけで、私の著書『2人の障がい者社長が語る絶望への処方箋』びっくりするほど売れてません。

どうか、お買い上げお願いいたします。

ご清聴ありがとうございました。

 

(平下)恩田さんありがとうございました。

続きまして、介護保障ネット共同代表の岡部宏生から講演いたします。

岡部は2006年。

48歳の時に、ALSを発症しました。

現在、JPA一般社団法人日本難病疾病団体協議会やDPI日本会議など、当事者団体の役員を務めています。

2019年には重度身体障害者とその家族が地域で自分らしく、または自分が希望するような生活が送れるようになることを目指して、NPO法人境を越えてを設立しました。

20229月には、介護保障ネットの共同代表に就任しました。

岡部さん。

よろしくお願いいたします。

 

 

画面を共有させていただきます。

(岡部)恩田さん、素晴らしい話をありがとうございました。

引き続き、介護保障ネットの共同代表を務めております岡部よりお話させていただきます。

たったいま呼吸器が故障しました。

呼吸器の会社が公開に参ります。

命に関わることなので、もしかしたら途中で何かやり取りをするかもしれませんが、ご容赦ください。

基本的には介助者に任せるつもりです。

では始めさせていただきます。

重度の障害者が在宅で暮らしていくためには、困難を抱えた人に寄り添って、介護保障ネット共同代表NPO法人境を越えて理事長、一般社団法人日本ALS協会相談役岡部宏生。

私の障害について。

岡部宏生と申します。

ALS筋萎縮性側索硬化症患者当事者です。

ALSは運動神経だけを選択的におかし徐々に全身の随意筋が動かなくなり、個人差がありますが3年から5年で呼吸もできなくなり、人工呼吸器をつけないと生きていけないという進行性の難病です。

こちら、略歴になります。

1958年東京都に生まれました。

大学では、馬ばかりの4年間でした。

2006年、ALSを発症し、翌年から在宅療養を開始しました。

2009年に日本ALS協会東京都支部運営委員、そしてALS患者の在宅生活支援団体のALSMNDサポートセンターさくら会の理事に就任しました。

その年の2月に胃ろう造設、9月に気管切開、人工呼吸器を装着しました。

2010年訪問介護事業所A Lサポート生成を設立しました。

2011年に日本ALS協会理事、副会長、2016年には、同協会会長に就任しました。

2017年からはJPA、日本難病・疾病団体協議会の理事。

2018年日本ALS協会理事、そして障害者の当事者団体であるDPI 日本会議の特別常任委員に就任しました。

2022年そして2019年にNPO法人境を越えてを設立し理事長に就任しました。

昨年からは日本のALS協会相談役重症心身障害者児の支援団体のうさぎのみみの理事と介護保障を考える共同代表を務めて今に至ります。

世界に誇れる重度訪問介護浅野史郎、元厚労省、元宮城県知事現在の日本の福祉を作ったといわれている人の1人が常々おっしゃっています。

重度訪問介護という制度は日本が世界に誇れる制度だと。

ALS患者の岡部宏生氏もこの制度を使って事例在宅で充実した生活を送っていると紹介されたこともあります。

さてこの世界に誇れる重度訪問介護とは一体何なのでしょう?介護保険の利用だけでは生活が成り立たない重度の身体的障害者や知的障害者や精神障害者のために障害者総合支援法に定められた支援制度です。

以下は厚労省のホームページに載っている重度訪問介護制度の説明です。

重度の肢体不自由者または重度の知的障害もしくは精神障害により行動上著しい困難を有する障害者であって常時介護を要するものにつき、居宅において入浴、排泄および食事等の介護調理、洗濯および掃除等の家事並びに生活等に関する相談および助言その他の生活全般にわたる援助並びに外出時における移動中の介護を総合的に行うとともに、病院等に入院または入所している障害者に対して意思疎通の支援その他の支援を行います。

(日常生活に生じる様々な介護の事態に対応するための見守り等の支援も含む)対象者、障害支援区分が区分4以上、病院等に入院または入所中に利用する場合は、区分6であって、入院または入所前から重度訪問介護を利用していたものであって、次のいずれかに該当するもの。

1次のいずれにも該当するもの。

(1)二肢以上に麻痺等があること(2)障害支援区分の認定調査項目のうち、歩行、移乗、排尿、排便のいずれも、支援が不要以外と認定されていること。

2、障害支援区分の認定調査項目のうち行動関連項目等12項目の合計点数が10点以上であるもの平成189月末日現在において日常生活支援の支給決定を受けている者に係る緩和要件あり、私が感じているこの制度の特徴は、介護保険では利用ができない様々な生活上の支援が受けられること、例えば趣味活動や旅行への同行、金銭管理など、また移動支援の介護衣や見守りというサービスの提供も可能であり、長時間の介護が提供が前提になっています。

この素晴らしい制度の利用と、この制度が利用できる介助者の確保が可能となって初めて私達のような重度の障害者が在宅における生活が可能になるのです。

介助者の確保も大変高いハードルです。

これを超えるためにALSMNDサポートセンターさくら会では、自薦ヘルパー制度さくらモデルというものを活用できるように様々な活動を実施してきました。

また、全国ホームヘルパー、広域自薦登録協会なども自薦ヘルパーの利用ができるように活動をしています。

最近では私が介助者の確保や育成のために設立した境を越えてという団体も在宅での生活が可能なような活動を盛んに実施しています。

それでも、この介助者確保のハードルは実に高いものとして私達の前に立ちふさがっています。

介助者問題。

私達のような重度障害者が病院や施設でなくて在宅で暮らしていくには、どうしても二つの要件が必要となります。

介護保障ネットの活動の場である制度利用のお話に入る前にこの介助者問題について取り上げるようにファシリテーターの川口有美子さんから事前にご依頼がありましたのでお話をしようと思います。

何度も申し上げますが、私達重度障害者が在宅で暮らしていくためにはどうしても介護体制を構築することが必要です。

介護体制の構築には二つの大きな問題があります。

その一つが、重度訪問介護制度の利用ですがこのことについては後ほどお話ししたいと思います。

まず、介助者問題についてです。

介助者不足は日本社会全体の問題です。

つい先日発表されていましたが、人口に高齢者が占める割合が約30%だそうです。

この割合はますます高まっていくことになります。

高齢者介護の必要な割合も高まっていきます。

介護福祉士の人数は厚労省の発表によれば約180万人ですが、介護福祉士以外の資格で介護の仕事をしている人もたくさんいるわけですから、介護者の人数は実に膨大になるということです。

それでも介護者の需給は大変逼迫しているわけです。

ところで私のような重度障害者のケアができる介護者はどれくらいいると思いますか?もちろん正確な人数の把握ができるわけではありませんが約1から2%といわれています。

例えば私のケアを例にすると喀痰吸引や経管色胃ろうの栄養や水分の摂取などの医療的ケアが求められます。

もちろん全身不随ですから全身のケアも求められます。

それに加えて、文字盤などの特殊なコミュニケーションができることやパソコンやスマホやタブレットによるコミュニケーションツールの利用や、またはそれらの仕様の設定が求められます。

時には呼吸器のトラブルに対応することにも迫られることもあるのです。

もうお気づきだと思います。

通常の高齢者介護のように生活の支援ではなくて私達のケアの場合は命も預かる仕事になるのです。

しかもその特別に高いスキルを持って重い責任を担う仕事に見合った報酬が伴わない場合がほとんどなのです。

(報酬に関わる制度についてはここでは詳しく触れませんが)このような状態ですから私達のような介助ができる介助者の不足は極めて深刻になっているのです。

例えば私が居住している自治体は東京都の23区で人口が約50万人です。

時期によって若干の変動はありますが、訪問介護事業所の数は約90くらいです。

その中で重度訪問介護制度を利用して重度の障害者にサービスを提供している事業所は7から9くらいなのです。

隣接の区も大体同じくらいなのです。

皆様、耳を疑わないでしょうか?需要がないのではありません。

常に供給が逼迫しているのです。

ひっ迫どころか全く足りてないのです。

少し考えればわかることなのですが、難しいケアを要求されて重い責任を負って報酬も見合わないとすれば、この仕事を敬遠してしまうのは当然ではないでしょうか?実は魅力にあふれた仕事なのですが、人生の伴走者という極めてやりがいのある仕事なのですが、私が介護事業所を始めた約10年前はたった三つしか事業所で重度訪問介護に対応している事業所はありませんでした。

私達のような重度障害者が生きていくためには今申し上げたように制度という面と介助者という面の二つが最低必要なわけですがもう一つ触れておきたいことがあります。

私のお話の最後に触れていますが、社会全体の理解ということです。

障害者について何か事件が起こるたびに本人が死にたいなら死なせてあげた方が良いとか、あんな姿で生きるなら死んだ方がましだという意見をたくさん聞きますが本当に死んだ方がマシなのでしょうか?私は毎年10から20くらいの学校で講義をやらせてもらっています。

中学校から大学までですがこの死なせてあげた方が良いかという問いについては、大体8割の学生が死なせてあげた方が良いという意見です。

ところが極端な例もあるのでご紹介させていただきます。

一つは滋賀県にある大学の看護学部の例です。

ある学年80人のうち79人が、本人が望むなら死なせてあげた方が良いという意見だそうです約98%です。

かたや宮城県のある医学部では死なせてあげた方が良いという意見の学生はわずか1%であるそうです。

この医学部では繰り返し、以下の講義をしているそうです。

死にたい原因を取り除けないのだろうか?死にたい原因を取り除けばその人は生きるのではないか?私も全く同感です。

生きたいということと死にたいということはそれぞれに理由があると思います。

私は毎年、東大で「障害者のリアルに迫る」というゼミで講義をさせてもらっています。

その中のある年に以下のようなことを話しました。

彼らは生と死について二つがまるで対等に存在しているかのように議論をしていました。

私は生と死の二者択一のような表現がされていることに違和感を感じました。

私は、学生たちに伝えました。

生きることが前提で生物は存在しています。

生と死の天秤は、元々釣り合っているのではなくて、大きく生に傾いているのです。

その天秤をひっくり返して死を選ぶのはとても不自然なことです。

その不自然さはどうして起こるかについてを考えないとということですと。

その不自然さの一つがある価値観に縛られるということだと思います。

テレビでスポーツ選手のメンタルについての番組を見ました。

日本代表になった選手たちの2割くらいの人が死を考えたことがあるそうです。

競技で結果が出なかったり、自分は本当にこれを望んでやっているのか?などの悩みだそうです。

取り上げられた選手の中に10代で日本代表になった女性がいました。

彼女も怪我などがあり活躍できなくなって死を考えたそうです。

現在は2児の母として幸せに暮らしています。

私は健康なころ価値について二つのことを思っていました。

サラリーマン時代に担当した人たちには社会で大変活躍をしている有名な人たちもいて、私は寝る時間も惜しんでそんな人たちとの付き合いをしていました。

そんな人たちの横にいることが楽しくて仕方がありませんでした。

一方で、私はたとえどんな職業に就いても楽しく生きられる自分でいたいと強く思っていました。

それができるようになったら人生の達人になれると思っていたからです。

妻に、どんな職業でも良い?と聞いたら、いやだと言われてしまいましたが、もしかしたら人は何かのフィールドに縛り付けられているから、生きづらいのではないかと思うのです。

人としての価値なんて無限にあります。

そのフィールドの一つだけに縛りつけられないでほしいと思います。

そして尊厳にも自分を縛りつけないで欲しいです。

人は自分の尊厳に縛られてしまうから人の尊厳にまで思いをいたしてしまうのだと私は思います。

自分自身の中に存在している優生思想に縛られないでほしいと思います。

そんななら死んだ方がマシがそれぞれにあるし、またそれは変化もするものです。

そのときは、その人になってみないとわからないことです。

自分の尊厳に縛られるなということは大変難しいことですが、大変大事なことです。

その人の価値観であったりアイデンティティになるのですから。

幕末の長州藩で活躍した高杉晋作の辞世の句「おもしろきこともなき世をおもしろく」自分や世の中の価値観に縛られないことを表している。

極めつけのメッセージです。

話がずれていると思われるかもしれませんが私はこの価値観というものに縛られるから死なせてあげた方がマシだなんていうことを軽々しく言うのだと思うのです。

よく言われるのには人の介助を受けること自分の尊厳を失うことだと言われますがそれは体が動かないということを指しています。

そうすると、私などは全く尊厳がないことになりますし介助者を利用できるようにするための介護保障ネットの活動は一体何なのであろうかということになってしまいます。

もう一つ別の大学での講義でこのことについてこのことについて講義した後にグループワークをしたことがあります。

そのときは死なせてあげた方が良いと思えるのは身近でない人の場合であって、身近な人の場合は死なないでほしいという意見が8割を占めたのです。

 
でも、中には自分にとってもとても大事な人や身近な人が苦しんでいるのを目の当たりにしたら知らせてあげた方が良いと思うかもしれないという意見も出ました。

私はここまで考えてやっと生死について考えていると思うのです。

考えに考え抜いてその死にたいと言っている人の死にたいという原因を取り除けないか、もしくは小さくできないかということだと思うのです。

介護保障ネットが行ってきたこの11年の活動はまさに生きようと人が思える活動であるとともに、死にたいと思うような原因を取り除いてきたような活動だと思うのです。

重度訪問介護における行政との壁についてこの素晴らしい制度を利用するにはいくつかの大きな問題があります。

一つは利用ができるかどうかということとその利用時間の支給量が自治体の裁量に任されているということです。

例えば制度のことをそもそも知らない自治体の窓口担当者が全国の自治体にいるのです。

また障害者総合支援法の第7条にこの制度の利用は介護保険を優先するということが記載されています。

また、そのことによって自治体では介護保険を使い切らなければ重度訪問介護は利用できないと言われてしまうこともあるのです。

介護保険では受けられない介護サービスを受けたいからこの制度を利用したいにもかかわらずに、なのです。

しかし、厚労省からの通達により個別に必要性を判断することということになっています。

個別に判断すれば、その必要は明確なことは、大変多いにもかかわらずなのです。

また、支給時間というハードルも大変高いものです。

支給は認められたものの、実際に必要な時間数も支給されないことも決して珍しくありません。

家族に介護してもらうことが前提であるという自治体とのやり取りもよく耳にします。

まだ子供、中学生などにも介護を求めるのです。

最近はヤングケアラーという言葉をよく耳にしますがヤングどころか、チルドレンにも介護を求めたりするのです。

この行政との高くて厚い壁を障害当事者と一緒に時には代理者となって交渉にあたるのが介護保障ネットです。

この11年で様々な交渉、ときには裁判を実施してたくさんの実績を上げてきました。

2部ではそんな事例をご紹介したいと思います。

私達重度障害者にとってこの重度訪問介護の利用と介助者の確保ができるかどうかが文字通り人生を決定すると言えるのです。

病院や施設でなくて地域で暮らすには必要な制度であると冒頭の浅野史郎氏も言っています。

介護保障ネットの活動は私達重度障害者にとってはその具体的実績のみならず、精神的なよりどころとなっていると思うのです。

いわば障害者の最後のセーフティーネットといえるのではないでしょうか。

それほど重要な団体だと言えましょう。

私は共同代表という立場より、一当事者としての話になってしまいますが、どうぞお許しください。

困難を抱えた人に寄り添った活動。

この正義の味方のような介護保障ネットのことを一般的に知っていただくことはできないでしょうかと、いつも私は思っています。

私はよく外出をします。

コロナの時期を除くと月に20日は出かけています。

街で時々、幼い子に言われます。

「この人生きているの?」これは全く偏見というものを含んでいないと思います。

その子の親が手を引いて小さな声で言うのです。

「そんなことを言ってはいけません」と、私としてはそんなことを言う親御さんに「そんなことを言ったらいけないのはあなたです。

その言葉には同情と憐憫と偏見と差別が含まれています」と伝えたいです。

私は子供に話したいのです。

「君と同じように生きてるよ」または「死んでるよ ゾンビだよ」と、これは障害者である私の思いです。

もう一歩違う視点でも考えてみたいと思います。

では、この親御さんは一体どんな反応ができるのでしょうか。

私のような呼吸器をつけた障害者なんて見たこともないのです。

どうしたらいいかなんて、戸惑うばかりではないでしょうか。

若いときから知っていたり接していたりすればこんなときに戸惑うことだけではないと思うのです。

障害を自分事として捉えることはできないでしょうか。

よく言われることにし、当事者意識とかいうものがあります。

障害者で東大教授である熊谷晋一郎先生が言っています。

「当事者でなければ当事者のことは分からない」と。

全くその通りだと思いますが、別の見方もあるのではないでしょうか。

さて、先日鎌倉でバリアフリー海水浴というイベントが開催されました。

もう5年も続いています。

このイベントは、砂浜に敷物を敷き、車いすで海まで行って、車いすユーザーの障害者が実際に海水浴を楽しむというものです。

障害者とサポーターはなんと、生き生きとして楽しそうなことでしょう。

でも呼吸器をつけた私には参加することは全くできないのです。

私はこの場合、障害当事者なのでしょうか。

私はサポーターを呼びかけたり寄付を募ることは可能です。

私はこのイベントにおいては障害当事者の立場ではなくてサポーターの当事者なのです。

つまり当事者かどうかはその時々で変化するということです。

そもそも一人ひとりが違うのです。

何をもって障害者の当事者だと分けるのでしょうか。

私達は一人ひとり違いがあって、一人ひとりが当事者なのではないかと。

最後に京都のALS患者の嘱託殺人事件についてです。

在宅で生き生きと暮らしている人の方が少ないのです。

京都の嘱託殺人事件のような悲惨な出来事も起こるのです。

この事件について、本人が望むなら死なせてあげた方が良いという意見もたくさんありました。

「本当にそうなのでしょうか?」と問いかけました。

私はこのALS患者に直接支援者として関わっていた人と大変親しいのですが、その人が言っていました。

「人の関わり方によっては林さんは決してあんな死に方をしなかったと思う」と。

こうしてみると、人と人との関わりが私達障害者にとっても、健常者にとっても最も重要なことは明らかです。

その関係を、制度利用という立場から支えているのが介護保障ネットの活動であるわけです。

こういうことを根本的に社会で理解されたら、人との関係はもっと良いものになると思うのです。

どうぞ皆様、何か機会がある際には、それぞれが当事者であることと介護保障ネットの活動は、一人ひとりを支えるとともに、社会での繋がりをもたらすことを発信していただきたいと切に願う次第です。

ちなみに、恩田さんのように私も書籍を出版しています。

「社会を超えてパート1 このまま死ねるか」というタイトルです。

売れているかどうかさえわかりませんが、想いを詰めてありますので、どうぞご覧ください。

ご清聴ありがとうございました。

以上です。

 

(平下)岡部さんありがとうございました。

ここからは、これまでの講演も踏まえながら、恩田さん、岡部の対談に移りたいと思います。

介護保障ネットのスタッフ弁護士の長岡と、私平下も参加させていただきます。

コーディネーターの川口さんにマイクをお渡しします。

 

(川口)恩田さん。

ありがとうございました。

岡部さんありがとうございました。

私はこの2人には呼吸器をつけられるずっと前から関わらせていただいていて、何か昔のこと思い出しながら、感無量になっておりました。

最初のころからお2人はこんな立派ではありませんでした。

証人です。

本当にお2人とも迷いに迷って、笑っていらっしゃいますが、本当にいろんなつらい思いをして、いつも前向きであったわけではなく、ときに裏切られ、傷つき、でも、恩田さんが言われていましたように、諦めなかった。

2人ともいつも本当にひどい目に遭いながらも、泣きながらも前を向いていらっしゃっていたと思います。

やっぱりそこはすごい立派だったなと今思いながら、そしてまたこれからますます今度は、岡部さんがおっしゃられたように、今度はALSの当事者というよりはむしろ支援者の当事者として、こちら側、むしろ弁護士の皆さんや、あと、私は遺族ですが、支援者の側として活動されていくんだろうなと思って聞いておりました。

そうしたら、この後どう進めますか。

平下さん。

 

(平下)質問は私の方からさせていただいてよろしいですか。

(川口)よろしくお願いします。

(平下)私、あまりALSとかの障害に詳しくない者から、いろいろご質問させていただければと思います。

まず一点目なんですけれども、お二人とも、岡部さんも恩田さんも気管切開をされています。

気管切開を決断するまでにいろいろ悩まれたこともあったと思います。

声が出なくなることとか、家族にこれから家族との関係とかいろいろあると推察されますが、実際に何を悩んで、その決断を気管切開の決断をされたのか、そのときの家族の関わり方とか、それは判断材料として重度訪問介護などの福祉制度を利用するのは、決断のためにどういう影響があったのかお伺いできればと思います。

 

(川口)どちらから?用意ができた方からですかね?手を挙げていただければいいかな。

 

(岡部)では私からでもよろしいですか。

 

(川口)お願いします。

 

(岡部)岡部です。

代読します。

私の場合は全く気管切開をするつもりはありませんでした。

発病して2年くらい経過した頃に橋本操さんという先輩患者にお会いして、この過酷なこんな過酷な病なのに、他の患者やご家族や、ALS患者全体のためにいろいろな活動をしていることや、日々を思った通りに暮らしてるのを見て自分もあんなふうに生きていけないかと思ったことが呼吸器をつけるかどうかのきっかけになりました。

橋本操さんは介護保障ネットの私の前の共同代表です。

私のALS人生の師匠です。

今は、私は今なくなってしまった妻に生きるかどうかを相談しましたが、自分の母の介護も抱えてフルタイムで働いていた妻に私の介護も抱える余裕はないのに、好きにしてと言ってくれました。

内心は生きてほしいと思っていたことを後で知り合いから聞いて知りました。

私の場合、家族介護で生きていくという選択肢は最初からありませんでしたので、ありませんでしたので他人介護の体制がつくれるかどうかということでしたが、介護者は見つからないし、住んでいた自治体からも重訪の時間数は全例の208時間が最大の給付と言われて、これでは生きることを諦めるしかないかもと思っていました。

その頃は介護保障ネットもない頃でしたので自治体の担当窓口に重訪を支給してくれないなら呼吸器を付けないと本気で伝えていました。

以上になります。

 

(川口)恩田さん用意してらっしゃる間に岡部さんのお話にコメントしていいですか。

今思い出したんですけど、岡部さんが気管切開をすごく迷われていたときに確か時間数も出なかったし、喀痰吸引の法制化の前だったので、ヘルパーが、そういう経管栄養だとか、吸引はまだ容認という形で色されていたんですが、非常にその辺、ケアマネさんの理解がなくて、岡部さんだけじゃなくて全国的にケアマネさんが、非常に厳しく取り締まっていたという状況があって、時間数も駄目だし、法律も整っていないから、ヘルパーはとにかくできないというような条件だったんですね。

2012年、1112年ぐらいにようやくその検討会というか喀痰吸引の検討会が立ち上がって厚労省の中で法律の整備をしていかないと、ALSの人は、もう家族がいないとできないと。

家族がいたとしても家族がばてちゃう。

ようやく厚労省にそれが伝わって何とかできるようになってきたんですけど、その前の時代というのは、時間数だけじゃなくてヘルパーが吸引しない経管しないということでたくさんの患者さんが命を諦めて亡くなっていったんです。

そういうことがありました。

だからそのときに岡部さんが、何とか生き抜いてくださったというのが本当にありがたかったし、橋本さんも喜んでいました。

岡部さんが生きてくれたことが本当に私達にとって追い風になったんです。

よかったと思って、今思い出しておりました。

恩田さんいいですか?準備はできましたか?

 

(恩田)よろしいですか。

(川口)(恩田)事前に送っていますが、読み上げていただけますかとのことです。

(川口)平下さん、送られた原稿お持ちですか。

(平下)持ってはいますがすぐには出てきません。

(川口)では用意していただいてる間に、恩田さんは、東京じゃなくて岐阜にいらしたので、もっと条件が厳しかったですね。

岐阜といえば、恩田さんが発症されるずいぶん前にご相談を受けたことがあって、

>> 

その患者さんは非常に前向きでいらして、喀痰吸引も2005年ぐらいだったのかな。

さくら会ができてすぐに相談を受けた患者さんだったんですけど喀痰吸引もないし、ヘルパーの時間数も全然出なかったんですけれど、そういうところを理解を進めてもらうために自分の家を事業所にすると自分の家を改築して自分の家でヘルパー事業所をやるということを実は恩田さんの前にそういうことをおっしゃった方がいらっしゃったんですよ。

その方は大学の教員をされていてしかも福祉系の大学の教員だったので障害に対しても全然変な差別意識というものは元々ない方だったのでこれは絶対うまくいくと思って橋本さんと東京からしょっちゅう岐阜の方に通っていたんですけど、なんとですね。

痰が詰まっちゃって、
それで、明け方奥さんが様子を見に行ったら呼吸が止まっていたと。

いわゆる事故死というか、本当に元気だったんですけど、ある日突然亡くなられてしまってこの話はなくなってしまったんです。

そういうことがあったので、本人がすごく前向きにやる気であっても、何らかのことがやっぱり、運命というか、運というものがあるなと。

本人は生きたいと思っていても、その前で亡くなられる方というのも大勢いるんですよね。

さっき言った立岩先生も本当にそうなんですけれども、亡くなる気がないのに亡くなっている方もいるということは皆さん本当に忘れないでいてほしいと思います。

 

(平下)いただいた回答で合っているかもし間違っていたら言っていただければと。

質問の回答が、私も妻も気管切開自体に迷いは1ミリたりともありませんでした。

命を繋ぐ選択肢があるなら当然の選択です。

それでも声を失うのが怖くて先延ばしにしていました。

希望は2015年に初めて岡部さんにお会いしてみた口文字でした。

人工呼吸器をつけてもコミュニケーションを取れると確信しました。

私は気管切開の入院中に重度訪問介護744時間を支給されました。

そしてさ、退院後、在宅生活で、妻との覚悟、退院カンファレンスで全ての支援者に伝えました。

先ほどお伝えくださったことかと思うんですけども、以上です。

 

(川口)平下さん、次の質問

恩田さん大丈夫ですか?付け加えることとかないですか。

 

(恩田)今の分に関しては大丈夫です。

(川口)さっきのお話の中で何度も質問されていたことだと思いますけど、普通は迷うんですけどね。

恩田さんは、迷いがなかった。

時々そういう患者さんもいらっしゃいます。

平下さん。

次何か。

 

(平下)次の質問、よろしいですか。

2人とも基本的に今現在職業ヘルパーさんと24時間の介護生活だと思うんですけれども、第三者のヘルパーさんとくらされてどう感じているかとか恩田さんに関しても、元々の講演でお話ください。

いかがでしょうかという、重ねてになってもしまうかもしれませんが、2人いかがでしょうかというところと、これから今、ALSまさに発症してこれから職業ヘルパーを利用としようとしている方たち、もしかしたらこれは今の私達のYouTubeを聞いてくださっているかもしれないので何かアドバイスがあればお願いしたいです。

 

(川口)先ほどお二人、講演の中でも少しずつ触れてくださってはいたんですけど、加えて何か。

ヒントになるようなことを教えていただければ。

良いなと思うんですけど、岡部さん何かさっき話さなかったけど、話しておきたいこととかあれば、お知らせください

 

(岡部)私は職業ヘルパーも学生ヘルパーも活用してこの10年暮らしてきました。

介護体制は独居で24時間他人介護体制です。

私は介助者のことを自分の一部であると言ったり、人生の伴走者であると言ったり、ある時は生きている呼吸器と言ったりしています。

それほど大事で密接な関係を介助者と構築するわけです。

介助者との関係が人生を大きく左右するのです。

私は、節度ある家族という関係を望んでいますが自分自身も節度ある家族のような態度を崩してしまうこともあります。

本当に難しくて大事な関係です。

どうぞ当事者の方は感謝を忘れずにでも、卑屈にならずに介助者と付き合って欲しいと思います。

介助者と気まずくなったときに何か頼むのは本当に難しいことです。

それを乗り越えることが必要です。

もう一つ申し上げると、介助者は圧倒的な人材不足で、私達は障害者を止められませんが介助者は仕事はいくらでもあるのでいつでもその患者の介助やめられます。

でもそんな中でも介助を続けてくれるハートを持っている人もたくさんいるので、私達も頑張りましょう。

以上です。

 

(川口)ありがとうございました。

恩田さんはまた回答を見平下さんに既に送っていらっしゃるかな。

 

(恩田)よろしいでしょうか。

 

(川口)(平下)すみません言葉がちょっと聞き取れなかったんですけれども、私の方で読んだほうがいいですか。

 

(恩田)はい、回答を読み上げてくださいとのことです。

 

(平下)わかりました。

当たり前のプライベートが、奪われると覚悟しなければいけません。

ヘルパーさんがいる生活を日常として許容する感覚が必要となります。

ある種の諦めです。

難しいので上手く言えませんが諦めといってもヘルパーさんとの関係は決して淡泊ではありません。

家族全員で命を預けることは半端な信頼ではできません。

といただいています。

 

(川口)たしかにそうなんですよね。

患者と当事者の関係は、ずいぶん昔からのテーマで、この重度訪問介護という制度はずっと前から障害者は、自分でヘルパーを探してきて、ヘルパーというか、昔は有償ボランティアと言っていたんですけれど、有償の前はただの本当にボランティアだったんですけどね。

一般の人から、自分の介助してくれる人を育てていく育てるという言い方をしていますけれども育てていくっていうことをずっと昔からやってきて、80年代とかからやってきているわけで、未だにですね、いろいろ問題は出てきていますが最近はあれですね、事業者が増えてきたのが一つあって、昔は。

CILだとか。

広域に登録して自薦で使うみたいなそれぐらいの方法しかなかったんですけども。

結構大きな企業も重度訪問介護に乗り出してきて、日本じゅうに支店があるような大きな事業所もできてはいるんですが、だからといって、介助者が、余るというか、ふんだんに使えるわけではなくて、本当に困っていますよね。

あと、量の問題だけではなく最近浮上してきたのは資質の問題というのがあって、うまくいかないと、要するに本人が絶望してしまうというか死にたい気持ちになる呼吸器を外して治療を停止したりとか安楽死という形で自分で毒を飲んだり、打ってもらって死にたいという。

当事者がいたりなんかするんですよね。

私は時間数は、今までは質よりも量だとずっと運動してきていながら、最近は質について考えなきゃいけないかなという気持ちになっていますし、その場合は、声を大に言いたいですけども、看護師とか、病院ですね。

との関係はこれまでは結構障害者の運動は水と油だったんですけど、ここはちゃんと使えていない資源の部分だと思うので、やっぱりうまく仲良くなっていくっていうことによって、もうちょっと使える制度や場所、あるいはクオリティ、QOLを向上させる。

そういう新しい状況というのが出てくるんじゃないかなと思っています。

いかがでしょうか、次の質問に行きますかね。

 

(平下)もしよければ長岡さんからも弁護士としての立場で介護ネットに関わっている立場でお話を伺いできたらと思うんですけれども、

 

(長岡)介護保障介護保障ネット事務局弁護士をしております兵庫県の弁護士の長岡です。

よろしくお願いいたします。

ここまでのお話をお聞きして、重度訪問介護が世界に誇れる制度だという話が岡部さんからありました。

我々、弁護士の方では、この重度訪問介護をきちっと使える制度にする必要があると、生きるために必要不可欠な介護なんですけれども、これを実現するためには多くの壁があると。

介護者の問題とか、質の問題とか、医療看護の問題もありましたけれども、この重度訪問介護の支給量を獲得するというところが弁護士が、役割を担える部分かなと思っているのですが、時間数がないと、その入口にも立てないというところがあると思います。

介護保障ネットを作って、行政交渉で、できるだけ早くきちっと時間を確保するということが、頑張ってやってきたことであるんですけども、我々の仕事の重要さというのを改めてこれまでのお話で感じてきたところです。

 

(平下)長岡先生からは、実際にALS者の方と接していて、気管切開を決断する、決断されてからお会いすることが多いのかもしれませんけれども、決断とかヘルパーさんと24時間介護生活をするということに対する大変さというか、現在は長岡先生自身今必要ないと思うんですけどもそういうことに対する先生が見ていて、どういうふうにお感じになるとかございますか。

 

(長岡)そうですね、ALSなど当事者の方から相談をいろんな場面でお聞きをします。

発症して比較的早い段階で相談をお聞きすることもあって、今後、気管切開をしようかどうか。

ただ、家族の介護負担のこととか、気管切開した後の介助の問題、生活がどうなるかということを考えて、前向きになれないという方もいらっしゃいます。

私が関わった案件の中でも自分は気管切開をしないでおこうと思っているということを初回の相談でお聞きして、しかしその後、弁護士が受任して行政交渉をして24時間の公的介護もありうると、完全他人介護をして気管切開をしていけるとそういうこともできるんだということをお話をして、それで実際にそういう場面になったときに気管切開をされて手術を受けて、今も元気で散歩なども行かれている方もいらっしゃいます。

ありがとうございます。

川口さんにお戻しします。

 

(川口)長岡さんには和歌山のときからあれの勝利が大きかったかなと思うんですけど、ちょっと話していただけますか、結構歴史を知らない新しい患者さんが多いので、少し昔話もしながら進めていくといいかなと思います。

 

(長岡)和歌山で11周年シンポを今日やっているんですけれどもこの設立のきっかけになった一つの裁判が和歌山ALS訴訟というのがありまして、70代の男性の方。

2名が似たような状況で、奥さんとALS患者の夫が暮らしている。

奥さんはいずれも70歳代ですので、要介護要支援の状態でしかし公的介護としては112時間程度しかないと。

そうすると残りの12時間は奥さんが介護をしないといけない。

ただ実際には無理なので、

少ない支給量ですけれどヘルパー事業所の方で半ばボランティアでやっていたと、こういう状態で、相談にこられまして。

審査請求しても駄目だったので裁判しかないという形です。

裁判をして、仮の義務付けという、判決を待てないので、先に、仮に認めてもらうという手続きなども使って裁判をしたんですけど、結論的には、121時間以上、支給量をつけなさいという判決を得ました。

ただ、裁判は1年半、2年くらいかかっていますので、その間に1人の患者の方は残念ながら亡くなられてもう1名の方は増えた支給量で、生活ができたと、こういう事案がありました。

重度訪問介護をやればきちんと、24時間体制が実現するという可能性を感じたことはありますが市町村の運用の問題とか、裁判をやると時間がかかる、こういう課題も感じたという。

そういう事件がありました。

 

(川口)思い出していますけど、長岡さんたちが画期的だったんですね弁護士さんに頼んでいいのかという初めて他の領域の支援に入っていただいたそれまでは、CILとかALS協会の中でも事業所をやったりする人は極めて少なかったので、制度を知っている人もあまりいなかったんですよね。

交渉に立ち会うことができる人も本当にいなくて、どうやっていたかというと、本人が一生懸命自分で勉強してやるとか、橋本操さんが先駆者だったので、橋本さんが駆けずり回って、ノウハウを教えていたみたいな状況で、そしたら、長岡さんたちが勝ち取ってくださって、こうやって弁護士さんにやってもらえるなんて、そのときに大野さんと藤岡さんに相談して、弁護士の会を立ち上げてもらったということがあってあれから11年なんですけど、本当に人権の問題ですよねこれって。

生存権に直結している問題だと思うんです。

生存権と言いながら、ALSにはどうですか、生存権ってないんじゃないかなってちょっと思っていて、もし生存権があるとしたら最初から全員に24時間確実に出てないとヘルパーの介助が受けられるというのをそれを勝ち取っていかなきゃいけないという、そういう状況にあるというのはどうなんですか。

生存権というか、その面からシナリオにない質問今してるんですけど、長岡さんどう思いますか。

 

(長岡)では長岡です。

憲法25条とか13条とか14条、このあたりで13条は個人の尊厳を保障していて、14条は、平等権、障害のあるなしに関わらず、個人の尊厳、あるいは25条で生存権が保障されていることになりますが、憲法は、ずっと前に、なので、憲法上は、最初から認められているが、実態としては認められていないということがあると思いますこの理想といいますか本来あるべき姿と、実態との間の格差を埋めていくという作業を、当事者もずっとしてきたし、支援者、弁護士の方でもそういう作業をしているとそういうゴールを決めてそこに一歩ずつ向かっていくという恩田さんのお話がありましたけれども、そういうことを当ネットでも日々やっているということなのかなと思っています。

 

(川口)ありがとうございます。

平下さん何か。

言いたいことがあれば、

 

(平下)生存権そのものだというのは本当におっしゃる通りだと思っていて、私は介護ネットにそのことはあまりわかってない感じではあるんですけどそれが保障されなければ、さっき、恩田さんか岡部さんかどちらかおっしゃってたか窓口で、24時間介護が出なければ、気管切開しないという話をしたとおっしゃっていて、本当、それが生きるか死ぬか、まさにそれに直結することなので、本当に生存権なんだなというのは、講演を聞きながらすごく思いました。

 

(川口)そうですね、生存権、守られてないですよ。

生存権が守られているんだったら介助は絶対につけないとだめですといったみたいですね。

あと家族がいるからいいというのは家族の人権問題も出てくると思うんです。

家族の社会権とか自由権とか働く権利とか全部奪われてなんて言われるかというと、家族も仕事を辞めて介護をしなさいって言われるんです。

未だに言われるんですよ。

私も言われました。

うちの父も言われたんです。

自治体の窓口で、それってどうなの?と家族が仕事をしなかったらどうやって暮らしていくのかということなんですよね。

すごい矛盾していることを、区役所市役所で言われているんです。

未だにそうで、つい先週、今週も某市の患者さんの交渉に立ち会ったんですけどそこに来た。

市のソーシャルワーカーの方って、全然、20年前と同じような感じで、とにかく切り詰めよう、切り詰めようと、24時間なんか出さないというていでくるわけです。

聞いたら、再雇用で一旦市役所を退職して再雇用で戻ってきた人なんです。

この方ずっとこの仕事をしていて、どうも市役所の中では、この人に任せておけばたくさんの時間数を出さないで済むという切り捨て御免の名人みたいな、ソーシャルワーカーさんだったんです。

こういう人が必ず1人はいるんです市町村に。

必ず出会います。

またこの人出てきたかという、向こうも川口をみてもまたこいつ出てきたかみたいな。

本当にそういう人がいて、そういう人って、自分の言動で1人患者さんを殺しているというか要するに呼吸器をつけられないようにしているって人殺しだと私は思っているんですけどそういう罪の意識というのが全くないんですよね。

すごい不思議なんですね。

あなたの言動で人が死ぬんですよ。

そういうことを本当に言いたいというか言っちゃってますけど今でも多分これを見ている方はうなずいてると思うんです。

それぐらい、人権を奪われている搾取されているというのがすごく呼吸器をつけますかつけませんかということなんですよね。

さっき岡部さんが言ってたけどフィフティフィフティじゃないんですよ。

確実に生きる方に傾いているはずなんです人間は。

人間じゃなくて動物はみんな生きるようになっていてそれを選択の問題にするときにどっちにしますか?ってまるで本当にフィフティフィフティの天秤みたいにかけていうのはこれは医療者が間違っています。

神経内科の専門医がそういうふうに言うわけですどっちを選びますか?ってそういう話じゃないでしょて思うんです。

ちゃんと医学部でこういうことを教えているかって聞いたら、やっぱり倫理の時間でものすごく少ないし、文学とかそういうことも進めてないんですって。

すごく忙しいからそういう隙がない文系の勉強をしてないんです。

お医者さんたちが学部の教育にぜひともこのネットのような話を入れていきたいと思っているんですけど、話がずれて、だんだんずれていっちゃうので、軌道修正しますけど。

平下さんどうですか岡部さんと恩田さん、言いたいことがあったら今のうちにまだ時間があるから、言わせてもらうといいと思いますよ。

 

(平下)私から質問しても、今、家族の話が出たので、その話もお聞きしたいんですけれど、私も家族に障害がある重い障害がある弟がいて、障害がある家族に対するアドバイスを恩田さん岡部さんからいただきたくて。

なかなか綺麗事だけじゃ終わらないところもいっぱいあって、なかなか弟の言動についてとか、それを取り巻く家族について家族の中でもいろいろあったりとかするんですけど、ざっくりとした質問になっちゃって恐縮なんですが。

障害のある家族を持つ人へのアドバイスを、お2人からいただければと思います。

 

(川口)岡部さんから。

 

(岡部)岡部です。

私は当事者なのでご家族に何か言えることはないのですが、当事者の方には、当事者の方に障害は自分の一部でしかないと申し上げたいです。

他人やご家族に当たるということをしてしまうと自分の一部でなくて、多くの部分になってしまいます。

そんなの、悔しいではないですか。

障害はあくまで自分の一部だとしておきたいと思います。

以上です。

 

(川口)恩田さんいかがですか?読んでいただけますか。

平下さんのところに事前に回答が行っているかな。

 

(平下)よろしいですか。

恩田さんは、私が読んでしまってよろしいですか。

我が家は家族は一切介護に関わらない完全他人介護体制を取っています。

ALSに家族の誰も犠牲にならないためです。

本来障害者の家族の役割は介護者でなく理解者です。

家族介護をしていては理解者になる心の余裕がなくなると思います。

と、いただいています。

 

(川口)川口から、私は家族の立場から申し上げますと、障害でもやっぱり、ある程度までだったら家族で十分できると思うんですよ。

軽いとか言っちゃうと申し訳ないんですけど、私も母が車いすになってトイレ介助が必要で、食事の介助も必要で、ぐらいだったら全然苦にならなかったんですね。

むしろ、母とずっと一緒にいられるということが嬉しいと考えることがあって、あと、ほうっておくこともできたので、今、父の介護をしているんですけど父の介護をしながら今オンラインで仕事をしているんですけど、なんていうんですか、ただ度超えてくるとやっぱり障害が重くなってずっと家族がひっきりなしに手を出さなきゃいけないとか見てなきゃいけないとかそうなると今度家族の普通の生活が奪われてしまう。

そうなると、やっぱりちょっと家族だけでは無理ってなってくるのかなと、いくら愛情があっても、できなくなってくる。

そうすると、やっぱりドメスティックバイオレンスというか、DVが出てしまったり、ひどいことを言ったりとなってくると
やっぱり、あと家族は社会学的に言えば、利害対立とか利益相反といいますよね。

だから最初から家族がいるからいいだろうというのはちょっと甘いんじゃないかなって思います。

ただ、家族が、いなくて、全部他人でできるという障害じゃない場合もありますよね。

例えば非常に重い精神疾患であったり、発達障害難しい発達障害身体系ではないものがむしろ難しいかなと。

行動援護が必要な知的の障害の方とかそういう場合家族がある程度ヘルパーさんとしばらく一緒にいて慣れるまでは家族のサポートをするとか、そういうことも必要なのかなと。

そういう場面は何回も見てきてはいます。

理解しつつ急には渡さないという感じですかね。

だから最初に、介護はきちんと家族はできるようにしておいてだんだん他人に渡していく。

でも、家族は離れずつかれず見つめていく見守っている。

全体を見守っているという。

ポジションがいいんじゃないかなと思っています。

 

(恩田)よろしいでしょうか。

家族は別人格です。

 

(川口)家族は別人格です。

それを尊重したいとそういうことですね本当そうですね。

逆に家族が、障害者を手放さないで囲い込んでしまう自立をさせないという問題これは、子供が障害を持った場合、よくある話になるんですけれど、ALSだと、ちょっとピンとこないですね。

逆が多いんですけどそれはそれで、子供の障害を持った子供の自立の問題というのは、非常に今も大きなテーマで残っていますね。

平下さんいかがですか。

 

(平下)川口さんで質問になっちゃうかもしれないんですが、私は今、介護しているわけではないんですが、物理的な介護というのは、技術を習得して勉強して覚えたり、やっていくうちに慣れたりというのがあるようには感じてるんですが、さっきも、岡部さんとか恩田さんのお話にもあった、
それを総括して川口さんが言った話になったんですが綺麗ごとだけじゃないことがいろいろ絶望することとか、慣れではなかったという話をまとめで話をしてくださったんですが、物理的な活動とかよりも、絶望に立ち会ってしまったり、自分が当たられたり、自分ではないけど、自分の親しい人とかに、当たっている姿とかを見ると、結構つらいなと思うことが多いんですけど、(川口)平下さんの言いたいことはわかります。

私も本当に崩れちゃう関係というのに立ち会った、直面したときは、家族に「逃げろ」と言ったことが何回かあります。

というのはそのまま行くと家族が殺しちゃいそうで。

多分そういうことも何回かあったんでしょう。

家族が当事者を殺しちゃってということがあったので、そういう場合は家族に我慢しないで離れるように。

離れても日本の場合は一応病院で診てもらえるんですよ。

だから、そういう意味では大きな病院が未だにあって、ずっと入りっぱなしになっちゃうと、それは問題はあるんですけれども、一応その家族が逃亡しても、その時点で呼吸器を外さなきゃいけないとか、アメリカはそうなんです。

家族が介護しないで家族がいないと、呼吸器を取っちゃうんです恐ろしい話で。

それはOKなんです。

国が違うとだいぶ考え方が違うのがALSの業界で私はその話を聞いたときにびっくり仰天したんですが、そういうものだそうです。

でも日本は家族が逃亡したらちゃんと病院があって、そこに一応入っていられるので一応そういうふうにして家族と誰かが仲介して離れるとした方がいいときは結構ありますよね。

だから本当につらくなってこじれてしまったら、一旦別れる。

別れてそこからお互いの自立を考えるということだったと思います。

家族は家族の自立、本人は、本人の自立を考える、いつまでもくっついていないというのは一つの方法かなと思います。

 

(平下)長岡先生に質問です。

そういう家族がこじれて、弁護士の活動、介護ネットの活動に影響があったり、逆に修復されてよくなったとか、そういうこともあったりされるんでしょうか。

 

(長岡)そうですね、今お話をお聞きしていたあたりながら持っていたケースがあって、比較的早期に夫婦で、奥さんがALSになって発症して早期に相談にこられた事案で、そうすると、夫のほうで介護するのは難しい。

24時間介護ができないと思っており、離婚するとおっしゃっていたんですね。

症状が進行して、そうすると、2人ともしんどくなってしまって関係が悪くなるというような場面がありました。

これは、完全他人介護というやり方もあるということをある時知るんですね。

そうすることで、別に離婚する必要がないんじゃないかということも申しあげたりしたんですけれども、結局今、離婚には至っていないんですね。

他人介護の体制を組んでいるということがあって、家族の本人の生存権と家族の生存権が対立してしまう構造はとても不幸なことだと思います。

理解者であったはずの家族が家族介護の負担があることによってバラバラになってしまうということがいろいろなところで起こっているということだと思うんですけれども、これは障害者の権利条約などでは、公的な介護を提供するというのは国の責任であると、こういうこともうたっているということがあると思います。

家族の人権、本人の人権、いずれも成立するということでないといけないと思います。

 

(川口)離婚というのはよくありますが、離婚も一つの手段だと思いますがその前に別居してみる。

一人暮らし、呼吸器をつけた一人暮らしは、日本では橋本操さんが初めてやって、そのときは日本ALS協会を挙げて反対したということがあったんですけど、今はもう一人暮らしの患者さんは普通におられます。

当時はもう呼吸器をつけて一人暮らしなんてとんでもないと。

あれは2003年ですよね。

2003年に初めて呼吸器をつけた人が一人暮らしをするということがありました。

そのときは離婚はしないで、ただ別居して、ご家族も、しょっちゅう出入りをしていたので、もう1軒、家を借りただけだったんですがそれでだいぶ風通しは良くなりました。

最初から別居を選ばれる方も最近は増えています。

ご家族、ご夫婦で同じ家に住まなくていいんじゃないの?ということで一人暮らしを選ばれる患者さんが増えていますね。

それは、私はその方が家族を守れるかなと思ったりもしていて、家族のプライバシーが守れるので、そういう意味では家族にとっては気楽かなと、ちょっと隣の町ぐらいでアパートを借りて1人で住んでる方も増えてはいます。

いかがでしょう。

 

(平下)ありがとうございます。

私から最後の質問になるんですけれども、今回のシンポジウムは、「社会で生きることと権利」をテーマに、講演をいろいろいただいていたんですけど、社会にはもちろん、ALSだけじゃなくていろんな障害があって、恩田さんと岡部さんはいろんなことをしてくださって、書証を書いてくださったり講演会に出てくださったりしていますが、お2人に聞く話ではないのかもしれないんですけど、もっとそういうことを開示してくれて社会が社会の人たちが知れるような社会になってほしいな。

それをまず知ってもらいながら、生きていくというのが社会でみんなで生きることのようなイメージが結構あるんですけれども、障害とか病気はすごくプライバシーの高いものじゃないですか。

弁護士をしていると知られてはいけないものとして、かなりプライオリティの高いところにあるものだと思っているんですけれども、2人が積極的に活動されて広く、状況を発信してくださる、そういう姿勢の理想とか思いとか、今回の「社会で生きることと権利」のテーマについてのお話が聞ければと思います。

 

(川口)岡部さんどうですか?(岡部)岡部です。

私はよく外出をして、ときには、幼い子から「この人生きてるの?」と、言われることは先ほどお話しました。

どうしてそのような活動的なことをやっていることや、その思いはどうしてなのかをお話するとしたら、私が呼吸器をつけて生きてみようかなと思った理由は、先ほど申し上げたように、先輩患者の生き方です。

そんなこんなふうに活動的な言い方をする必要は全くないと思います。

それぞれに好きなように生きていける社会になってほしいと思います。

私は自分のやりたいことをやっているだけです。

そのやりたいことが活動的な暮らし方なのです。

そうして活動していると次々に新しい方と知り合ったり、新しい事象に出会ったりして、また活動をしたくなるのです。

以上です。

 

(川口)ありがとうございます。

そうしたら恩田さんの、平下さんにまた原稿がいってるでしょうかって、どうでしょうか?

(平下)恩田さん読んでよろしいでしょうか?
(恩田)お願いいたします。

(平下)フラットに健常者と障害者というくくりが聞ける社会を目指して活動しています。

そもそも障害とは、病気に限られるものでしょうか。

人生全てバラ色の人など存在しません。

生きていれば、多かれ少なかれ悩みや苦しみを抱えています。

大切なのは、どんな境遇でも同じ人間だと実感することです。

それには、対話が不可欠です。

自身の障害を隠したい方もいらっしゃるかと思いますが、それは社会に原因があると思います。

社会の常識を変えるのが私の使命だと思います。

かくいう私はALSになるまでは35年間、障害者の世界に気づかずに、全く接点なく生きてきたからです。

といただいています。

 

(川口)恩田さん何か加えることがあれば?あと、私から言いたいのは、これは厚労省マターじゃなくて文科省に何とかして欲しいと思ったのが、学校で子供のときから同じくらい、障害を持っている子がいろんな障害を持っている子がいれば、そういう社会が当たり前じゃないですか。

そこを変えたら大きいと思います。

 

(恩田)特に若者の教育に入れて欲しいです、とのことです。

 

(岡部)川口さんと恩田さんの意見に大賛成です。

 

(川口)亡くなった海老原裕美さんは一生懸命この活動をされていましたし、舩後さんは国会議員になってこの問題に一生懸命取り組んでいます。

障害が普通のことになる。

別に障害にならないようにするためには、やっぱり子供のときから一緒にいると、当たり前のように隣に障害を持ってる子がいるという社会になるのが一番手っ取り早いですよね。

ありがとうございます。

平下さん、これで最後でしたっけ?
 

(平下)今のが最後です。

 

(川口)時間がオーバーしたので10分遅らせましょうか。

休憩が入るはずなので、20分から休憩のはずだったんですが、30分から、27分から、休憩を10分遅らせて、37分までにしますか?よろしいですか?お水を飲んだりトイレ行ったりの休憩にさせていただきます。

 

(平下)私の方で司会を引き継がさせていただきます。

恩田さん岡部さん川口さんありがとうございました。

10分の休憩を挟んで、1528分、15時半から、10分間休憩をさせていただければと思います。

2部は1540分から開始できればと思います。

2部では、私たち介護保障ネットが支援して重度訪問介護の支給量を勝ち取った事例をいくつかご紹介します。

引き続き、ぜひご視聴ください。

 

 

 

 

(平下)それでは第2部を始めます。

介護保障ネットは2012年に立ち上がり今年で11周年を迎えます。

まずはこの11年間の歩みを、介護保障ネットの弁護士の採澤よりご報告します。

採澤さんよろしくお願いします。

 

(採澤)皆さんこんにちは。

介護保障ネット弁護士の採澤と申します。

私からは介護保障ネットがどういった考えを持って活動してきたのか、どういった事案をサポートしてきたのかということを10分程度で簡単にご説明したいと思います。

1部、皆さんご視聴いただいたかと思いますが、私としても非常に勉強になるとても有意義なディスカッションだったと思います。

恩田さん岡部さんからもそれぞれにとても印象に残るお言葉をいただいたので、私の感想を込めて、新ためてご紹介できればと思うんですが、まず恩田さんからは、人生は自分を好きになるためにあるとお言葉をいただきました。

非常に感銘を受けました。

なんていうかな、改めてこういうふうな言葉をいただけるというのは皆さんにとっても、気づきがあったんじゃないかなと思うんですけど、介護保障ネットとして、これまで、サポートしてきた本人さんたちもそうですし、これからサポートをさせていただく方々におかれましても、自分を好きになれるような生活のサポートをできるとしたら介護保障ネットとしてもとても嬉しく思います。

それから、岡部さんからは、介護保障ネットの活動について、死にたいと思うような原因を取り除くようなあるいはそれを小さくするような活動をしているんじゃないかというご評価をいただきました。

さらに社会での繋がりをもたらすような活動にも繋がっているのではないかというそういう評価もいただいてとても嬉しく思います。

今後も介護保障ネットとしてこういった自分らしくご本人さんたちが自分らしく地域で生きられるような生きたいと思うような活動をしていければと強く改めて思った次第です。

少し感想を、コメントを述べさせていただきました。

それではですね本編の方に入っていきたいと思いますが、介護保障ネットという言葉なんですけれども、あまり一般的な言葉ではないとかもしれません。

そもそも介護保障とは?というところから話をしたいと思うんですけれども、介護保障というのは、我々が作り出したような言葉なんですけど、障害のある人でも障害に関わらず自分が住みたい地域で自分らしい生活を送るために必要な介護を十分に受けられるように確保する活動と考えています。

これを今の制度で考えると、障害者総合支援法上の障害福祉サービスとしての介護給付を必要なだけ受給できることと、大まかにはそういうふうに私達は考えています。

よくある質問として、介護給付の支給決定は、行政が決めるものなので、それに対して文句を言っても仕方ないんじゃないですかねというふうなことをよく質問を受けます。

1部の方で川口さんが、こういうことって弁護士に頼んで良いんだということもおっしゃっていましたが、これって弁護士が何か言って変わるものなのかなと思う方もいらっしゃるかもしれません。

ただ、我々介護保障ネットとしては、最初に生存権の話が出てきましたけど、ヘルパーの介護を受ける権利は当然、障害のある人に認められる権利、ヘルパーが、必要な人に、認められる権利だと、行政市町村がこの権利を保障しなければならないので、行政裁量という言葉も
よく使われますけれども保障しませんということは許されませんよということを考えています。

ちょっとここからは、法律の話になってしまいますが、重要なところですので、お伝えします。

この介護を受ける権利は何なのか、どういう法律で、支えられているのかということについてご説明したいと思います。

このピラミッドがあって、憲法が国で一番の法規とされていますが、憲法から繋がる条約基本法、障害者基本法、それから障害者差別解消法、障害者総合支援法という法律によってこの権利が支えられていると考えられています。

まず憲法には、こういった人権が保障されています。

先ほどもちょっと話が出ましたが、13条では個人の尊厳ということが定められていますし、また、幸福追求権、自己決定権もこれによって保障されています。

憲法14条の平等権、221項では、居住・移転の自由でどこで生活するかとか、どこに行くかとか、そういったことについても、人権として保障されている。

憲法25条生存権というのもあります。

ですので、ヘルパーの介護を受ける権利というのは何か一つの法律の条文から何か保証されているわけではなくて、こういった重要ないろんな人権で支えられているということが言えます。

障害者権利条約でも、このことは言われていて、そもそも障害に基づくあらゆる差別を禁止するということを条約は求めていて、かつ合理的配慮が提供されることを確保するための全ての適当な措置を取ると、これは措置を取るのは国がそういう義務を負っているということを条約は言っています。

さらに地域で生きる権利については障害者権利条約19条というのがありまして、全ての障害者が他の者と平等の選択の機会を持って地域社会で生活する平等の権利を有することを認めると、地域社会で生活する平等に生活にする権利が認められています。

その上で国がそういった権利を守るために必要な措置を取らなければいけないと定められています。

昨年の秋に、障害者権利条約を所管する国連障害者権利委員会の勧告が出ました。

その中で、平たく言うと、国に対して、日本に対してですね、障害者が地域社会で自立した生活を送ることができるようサポート体制を強化すべきだということを強く勧告されました。

憲法、条約という上位の法規範というものがあって、それを引き継いでいる形で具体化する形で、障害者基本法というのがあります。

障害者基本法でも、全ての国民が障害の有無に関わらず等しく基本的人権を持つかけがえのない人として尊重されるものであるということを障害の有無によって分け隔てられることなく、お互いに人格と個性を尊重し合いながら一緒に生きる社会を実現するということが目的として掲げられています。

同じ障害者基本法3条でも改めてそういった権利があると前提とされ、さらに具体的に、全て障害者は可能な限りどこで誰と生活するかについての選択の機会が確保されなければならないというふうに書かれています。

そういった基本的な原則を受けて、さらにこの重度訪問介護等の支給量について定める障害者総合支援法というものは、最初の条文で障害者が基本的人権を享有する持つ個人としての尊厳にふさわしい日常生活、社会生活を営むことができるようにすることが法律の目的だと書かれています。

ですので、こういった尊厳にふさわしいとは言えないような
支給決定を自治体が出すということは、障害者総合支援法の趣旨に反して違法になると考えます。

以上が、介護ヘルパーの介護を受ける権利というのがどういった法律によって支えられているのかというところのご説明でした。

そうは言っても、行政が支給決定基準を定めてますよねと、それを超える支給量は認められないんじゃないですかねということも聞きますが、支給決定における個別即応の原則という難しい話を書いてますが、要は、障害のある人それぞれ、ニーズはそれぞれなので、どういうご家庭なのか、どういう障害の状態なのかどういう介護が必要なのかは人それぞれなので、自治体の方が、一定の枠を決めてそこに当てはまるということではならないと。

それぞれの個々人のニーズに応じた必要な支給量が保障されなければならないということは、先ほど出た和歌山ALS判決とかその他の関連する裁判例でも認められてきているところです。

ということで、こういったそれぞれの状態に応じた必要な支給量が支給されるべきである。

それも当然の権利であるということが我々が理想とする姿なんですけれども、第1部にもありましたけれども、その理想とする姿と実態との間にはかなり差があるということになっています。

今のところ。

それはその認めてくれる市町村もあれば全然それを支給量を認めてくれないところもあって、本当に市町村によってばらつきがあると。

どこでたまたまその地域にいた人、その地域の自治体がどういう考えを持っているのかということで、その人の生活が脅かされてしまう。

そういうふうなことで法的介護が十分に保障されているとはならないということがあります。

ということで11年前に発足したのが介護保障ネットということです。

介護保障ネットというのは弁護士だけでなく、支援者の方々、それから障害のある当事者の方々がそれぞれ知恵や知識、力を合わせて行政機関と交渉することをモットーにしています。

和歌山ALS判決の紹介が第1部にありましたが、あれは裁判まで行かなければ解決できない事例ではあったんですけど、介護保障ネットとしては、裁判はとても時間がかかるので、できる限り早く必要な支給量を獲得するというために「申請一発主義」という名のもと、市町村との交渉段階で必要な支給量を勝ち取るということを目標にしています。

このあたりは、どういった活動をしているか、申請一発主義の中身を書いているものですけども、説得力のある資料を提出する、例えばヘルパーさんの介護日誌を出したり写真や動画で介護している様子を出したりとか。

お医者さんの診断書、ヘルパーさんのどういっているか、陳述書という形で出すご家族がどんなに疲弊しているかというのを陳述書で出す、そういった資料を自治体に出すという活動が主なところですね。

加えて、今言ったような、先ほど言ったような介護を受ける権利がどれほど大事なのかということを自治体の方にも知っていただくということで、理論武装をする。

あるいは、例えば、第1部にも出ましたけれども、家族ができるからいいじゃないかということに対して、どういうふうに切り返しをするかを考えるとか、そういったことについて法的な論点があれば、理論武装をするこういうことを軸に活動をしています。

こうした活動の積み重ねで、現時点で、のべ60名以上の方々を支援していました。

47都道府県全てで124時間の重度訪問介護支給量達成と書いてますが元々弁護士が入らなくても24時間出してくれてた都道府県もあるんですけれども、それ以外のところで弁護士が交渉に入って活動したところ、ようやく全国各地、全都道府県で24時間の支給量を達成できたということです。

それから、自治体によっては全然24時間これまで出したこともなかったのに介護保障ネットの活動によって24時間の支給量を獲得できた事例もあります。

このずっとどこで活動してきたかということを一覧表にしたところがここで本当に北は北海道から南は沖縄まで全国各地でご本人たちをサポートする活動をしてきました。

そういった個別的な活動の他に、今回の11周年シンポジウムのように毎年我々は市シンポジウム、対外的な活動をしています。

直近では、今、3年のシンポジウム3年間のシンポジウムをご紹介しているんですけれど、いろんな方をスピーカーにお招きして、対外的な支援活動もしています。

ということで、介護保障ネット11年のあゆみということでご紹介させていただきました。

ここからは、実際に、各地で、戦ってきた弁護士たち、ご本人たちからご報告をいただくことになっていますので、ぜひご清聴いただければと思います。

よろしくお願いします。

 

 

(平下)採澤さんありがとうございました。

続きまして、介護保障ネットにご依頼のあったケースで弁護士が関与し、重度訪問介護の支給量に関する決定を活動をおこなった五つのケースについて、全国各地の弁護士よりご報告します。

ここからの進行は介護保障ネットの弁護士の長岡から行います。

長岡さんお願いします。

 

 

(長岡)介護保障ネット事務局弁護士の長岡です。

ではここから今日は四つの事例をご報告させていただきます。

時間が1時間ほどありますので、1件当たり10分ないし15分、手短な報告にはなるんですけれど、ぜひお聞きいただければと思います。

一つ目は、東京の事例です。

東京の弁護士の幡野さんからご報告いただければと思います。

幡野さんお願いいたします。

 

 

(幡野)東京で東京都の立川市で弁護士をやっております幡野と申します。

よろしくお願いいたします。

画面共有で資料を出させていただきます。

少々お待ちください。

すみません、出す資料を間違えました。

私は、弱視の視覚障害当事者弁護士で、パソコンの画面にかなり近づいて、文字を読みながらご報告を差し上げます。

画面から、かなりどアップになってしまうと思うんですけれど、ご容赦いただければと思います。

私が担当した件で、生活保護の他人介護料という制度を利用して24時間介護を実現できていた方が、重度訪問介護の支給量を増やすことができて月774時間の支給量を獲得したという
東京都昭島市のケースがありましたのでご報告させていただきます。

まず、ご本人ですが、昭和3510月生まれの方でした。

昨年の10月に担当したケースで、当時63歳でした。

障害としては脳性まひの方でした。

従前、この方は、東京都昭島市に、平成17年ごろから、一人暮らしを始めているんですけれど、月620時間の重度訪問介護の支給決定を受けていました。

620時間ですと、124時間には足りないんですけれど、足りない部分を、生活保護の他人介護料の大臣承認という制度と、東京都重度心身障害者手当を利用して不足している部分のヘルパー代をまかなっていました。

本件の経過というところですけれど、ここは、弁護団が入る前の事情になります。

昨年4月から5月にかけて、利用していたヘルパー事業所のうち三つの事業所がヘルパー単価を値上げしたということがありました。

その値上げに伴って、生活保護や重度心身障害者手当は、金額が決まっておりますので、それではヘルパー代がまかなえなくなってしまいまして、ご本人の自己負担が生じることになってしまいました。

私の方で支援者の方からいただいた試算表というのがあるんですが、月30日の月だと約14万円くらい。

31日の月だと逆でしたごめんなさい、月31日の月だと14万くらい、月30日の月だと7万円くらいの自己負担が生じる計算になるということだったようです。

そういった、状態で、昨年524日に月774時間の支給量を求めて、ご本人の方で支給変更申請を行いました。

そうしたところ、昨年729日に本人の健康状態に変化がないということが一つ。

もう一つが、就寝時間中の重度訪問介護の必要性について必要性を基礎づける医師の意見がないという理由で申請が却下されました。

ただ、入浴介護に関しては、2人介護が必要だというところを、市役所が、認めましたので、昨年81日からは支給量が月620時間から650時間に増やされたと。

そういう経過がありました。

弁護団が介入したのはその後になるんですけれども、昨年819日頃に初回の相談がありまして、事情をお聞きしました。

昨年9月上旬頃に、介護保障ネットの支援を受けることになりまして弁護団が立ち上がったということになりました。

この件の特殊性としては、ご本人の誕生月が10月で、そのとき、当時の月650時間の支給決定が出ていたのが支給期間1031日までだったので、111日以降の支給量をもらうために、早めに更新の申請をしないといけなかったという事情があります。

その申請も10月中旬くらいには更新の申請を出さないといけないということだったので、準備の時間が1ヶ月ちょっとくらいしかなかったという事情がありました。

そのため先ほど、採澤さんからのお話で、いろんな資料をつけて、提出して、一発で申請を通すということを目指しますというご紹介がありましたけれど、本件はあまり資料を準備する時間がありませんでした。

ただ、意見書に厚生労働省のホームページに上がっている主管課長会議資料とか裁判例とかも添付して、1017日に月774時間の重度訪問介護の申請をしました。

意見書でポイントとして主張していたのは、従前、生活保護や、東京都の重度心身障害者手当を利用しながらも事実上24時間介護をやっていたということですね。

あとは、昭島市が申請を却下していた理由の中で本人の健康状態の変化がないという話があったんですけれど、法律上、支給量の決定に当たって考慮する事情の中に、障害者の置かれた環境とか、サービス提供体制の整備状況も考慮してくださいということが定められて、法律上定められておりますので、他の事情、そういった障害者が置かれた環境とかをきちんと考慮するべきだと。

いうことをポイントとして主張していました。

あとは、深夜帯に関しては、見守りとか布団のかけ直しとかが必要なので、そういう介護が深夜帯も必要だということを強調していました。

729日に出ていた却下決定に対しては1028日に東京都に対して不服申し立てをしておりました。

昨年1028日に月650時間で、一旦決定が出ました。

資料の精査に時間がかかるということで暫定的に出すという趣旨でした。

その後、市役所との交渉の中で、追加で医師の意見書を出してほしいという。

話が出たので、その市からの要望に応える形で、医師の意見書を提出しました。

その後、市の審査会が開かれた上で、月774時間の申請が無事通ったと。

いう結果になります。

東京都に申し立てをしていた審査請求不服申し立てですね。

こちらは、その後取り下げをしました。

こちら、参考裁判例ということで、福島地方裁判所平成19918日判決というものを記載しておりますけれど、こちらは、意見書の中でも引用した裁判例で、この事例では、旧身体障害者福祉法の時代の件なんですけれど、生活保護を受給している方の支給決定に当たって、生活保護の制度で、ヘルパー代が賄われているという事情を考慮して、生活保護でもらえているから障害、本件で言えば障害者総合支援法に基づく支給は減らすという対応が許されませんと、そういう趣旨の判事をしている裁判例なので、こちらは本件の参考裁判例として記載されていいただいています。

私の方で担当した事例の経過と結果は以上の通りです。

ご清聴ありがとうございました。

 

 

(長岡)幡野さんありがとうございました。

少しコメントをします。

この事例は、ポイントとしては、二つあるかなと。

元々、月620時間とか650時間の決定を受けていたということで比較的支給量としては、24時間に近い高めの支給量を持っていたいうことで、脳性まひということで常時介護が必要ではあるが特に医療的ケアが必要ということではないという事案で、元々支給量がある程度あるとなると、越えるべきハードルが高くて、650でも足りないということを言っていかないといけないのでなかなか交渉が難航するケースもあります。

このケースはそういう中でも、交渉審査請求もやりつつの行政交渉で短期で成果を短い間で成果を上げているということで、とても意義のあるケースかと思います。

幡野さんありがとうございました。

 

では続きまして、次の事例に、行きます。

次は障害児の例について、京都の弁護士の和田さんからご報告いただきます。

よろしくお願いいたします。

 

 

(和田)介護保障ネットの会員の和田と申します。

京都で弁護士をしております。

どうぞよろしくお願いいたします。

私の方からは、障害児に関する障害福祉サービスに関連する事案についてご報告させていただきたいと思います。

この事案は正確に言えば介護保障ネットに依頼があったケースではないんですけれど私が事件を進めるにあたって、介護保障ネットの会員の先生方にもいろいろご助言をいただきました。

また、この事例は、いわゆる重度訪問介護の支給量をめぐる争いではありません介護保障ネットの中核的な活動とは少し異なる側面はあるんですけれど、この事例を通じて、障害児に対する障害福祉サービスが極めて不十分であるということに気づかされました。

また、障害者の家族のお話が先ほどの対談でも出ましたけれど、特に障害児の場合に保護者が、非常に生活の制約を強く受けるという現実にも直面しました。

ですので、今日は私の担当したこの事例をご紹介するとともに、そこで浮き彫りになった障害児に対する障害福祉サービスの問題点について皆さんと共有できたらと思っております。

では、レジュメを共有いたします。

まず、事例ですが、当事者の方、私が受任したのが、これは令和3年の8月ということになりますが、当時介護ヘルパーの職業に就いていた母A、それから子供が4人いまして、B C D E、それぞれここに書かれている中学生、高校生、支援学校の小学部と小学生という4人のお子さんがいらっしゃいました。

一番上のお子さんBは、Aの実家である大阪府内で生活をしていて、CEは京都市内でAと同居生活をしている状況でした。

今回当事者となっていた障害児はDでして、3番目のお子さんでして、18トリソミーという難病があり、常時介護が必要な状況でした。

生活していた場所は、大阪府内の重症心身障害児施設でした。

この18トリソミーというのはご存知のかたもいらっしゃると思いますけれども、18番目の染色体が余分にある3本あるということによって引き起こされる障害です。

典型的には、非常に身体が小柄であるとか、手指が重なっているという症状が見られるということや、あるいは内臓にも機能疾患が見られるというようなそういう病気であまり長く生存することは難しいと言われている難病です。

実際には、このD さんは、気管切開されていて、常時介護が必要な状況です。

常にベッドの上に横たわっている状況でした。

このDさんは、施設入所するまでの経緯ですが元々家族5人で大阪府内で同居していまして、特段、介護サービス福祉サービスなどは利用していなかったんですが、やはり、1人の母が4人のお子さんを世話をしていくというのがなかなか難しい状況がありました。

そのため、B Dの世話をさせている、要は一番上のお子さんに、このDさんの世話をさせているとか、また逆に、Dのケアをするために、Bが放置されているということを、児相から指摘されました。

また、お母さんAが入浴している際に、Dのカニューレが抜去された状態になったりということも指摘されました。

どうしてもお子さんの中で体調崩してしまう子が出てくることがありまして、あるときお母さんが今回の難病のDさんを自宅に残したまま他の病院に連れて行ってしまったということがあったようです。

これはCじゃなくて、Eの間違いです。

一番下の子です。

このような事情が重なった結果、平成27年に児童福祉法2713号という規定によって、Dが施設入所ということになりました。

一般的に3号措置ということを言われるんですが、この3号措置というのは、保護が必要な児童について里親委託をしたり、あるいは乳児院とか児童養護施設といった施設に入所されたりするという措置になります。

都道府県知事、あるいは都道府県知事が委託した児童相談所所長が出す措置ということになります。

ただこの措置は、強制的に行うことができるものではなくて、親権を行う者が同意をするということが条件になっておりますので、この平成27年当時にお母さんだったAが同意をしたということになります。

その後、令和元年になって、お母さんと下の2人。

一番上の長女は大阪に残り、それ以外の3人が京都に転居したということです。

その頃からお母さんが児相に対して、Dさんを自宅に引き取りたいと繰り返し相談したんですが、はぐらかされるような形でなかなか具体化することはありませんでした。

そういう状況が何年か続き、それで私のところに相談がありました。

お母さんの代理人として、この3号措置に反対する意思を表示して措置の解除を求めたというのは、私が受任した。

最初に行ったことです。

先ほど申し上げたように3号措置は、保護者、親権者の同意が条件となっていますので、その同意を撤回するといいますか、反対するという意思を表示することによって、措置を継続する法的根拠がなくなるということになります。

ただ、2713号の措置というのは、これで継続する提供根拠がなくなりますが他の条文他の法的根拠があって、具体的に言うと児童福祉法2811号というものがあり、これによると、親権者か同意しない場合には家庭裁判所の承認を得れば、措置を取ることができるということになっております。

ですので、私がここでね、3号措置に反対するという意思を表示したとしても児童相談所が家庭裁判所に申し立てをして、継続的に措置を行うという可能性はあったとは思っていました。

そのことも前提にその後の協議を進めていくことになりました。

具体的には、令和39月からすぐに、受任通知を送ってすぐに、児相との協議が始まりました。

先ほど申し上げたように、あまり強行的に措置を解除するよう求めたところで、家庭裁判所の承認を得てさらに措置を継続されるというような可能性がありましたので、できるだけ穏当にといいますか、マイルドな形で在宅移行ができればと考えていました。

また、現実的にも、いきなりDさんがAさんのご自宅に移行したとしても必要な介護サービスや福祉サービス、その辺がまだ十分使えるかどうかもわからないような状況でしたし、介護体制そのものもまだ未整理でしたので、できるだけ段階的に自宅に移行していく方がいいだろうと考えて協議を進めていきました。

児相が言うには、少しずつ、外泊をすると、最初は一泊の外泊、それから2泊、3泊と外泊を増やしていって1週間というような形でどんどんどんどん外泊の日数を増やして最終的に児相として問題ないと判断した場合には措置を解除するということです。

このような方向を示されて、こちらとしても、その方向に特段の異論は示さずに進めていくということになりました。

かなり頻繁に児相とは協議をしながら進めていったというような状況でした。

そこで問題になったのが、福祉サービスをどれだけどのように使えるかということです。

Dさんが、当初、入所される前は、福祉サービスを、お母さんは使っていらっしゃらなかったわけですが、これだとなかなか生活ができないし、また、同じように他のお子さんとの関係でどうしてもDさんの世話に手が回らないという可能性が出てくるので、できるだけ障害福祉サービスを利用するという方向で進めていくことになりました。

そこで大阪の児童相談所、それから、実際にAさんが住んでいる京都市F区障害担当の方。

それから、実際介護を担ってくれる介護事業所と私などで複数回にわたって協議をして、どのようなサービスが使えるのかということを繰り返し、協議をしていきました。

そうした中で判明したのは、これは条文上、確かにその通りだなと思うんですが、障害児の場合には、重度訪問介護は利用できないということになっております。

他方で、重度障害者等包括支援というサービスであれば障害児でも利用することができて、これであれば24時間の支援はできるんだというふうにこの京都市のF区の職員の方がおっしゃっていたので、これを利用するという形で進めていきました。

ただこの重度障害者等包括支援というのは一般的にはおそらくあまり利用されていないサービス形態で、私自身もどういうものかあまりよく知らなかったんですけれども、障害者あるいは障害児に対して、居宅介護や重度訪問介護や短期入所とか、そういうサービスを組み合わせて包括的に提供するというサービスのようでした。

これを提供できる事業所は、その指定を受けないといけないことになっているんですが、当時、大阪には一つもこの指定を受けている事業所がなくて、京都には一つだけあるという状況でした。

ただ京都にあるその一つの事業所も手が回らないということで、Dさんに対してその支援をするのは難しいということでした。

ですから実際に支援をしていたこの介護事業所G、これは、ココペリ121という事業所でしたがこの事業所が自ら重度包括支援の事業所としての指定を受けてこの重度障害者等包括支援を自ら提供するという方向で進めていくことになりました。

最終的には、大阪それから京都の医療機関も含めて関係者でのカンファレンスを何回も実施して、令和55月に無事に措置が解除されて、Dさんの在宅生活が実現しました。

余談ではありますが、このDさんが入所していた施設で、在宅生活を実現した事例、施設では卒業という言い方をしていましたが、卒業した事例が初めてだったということで、その卒業式のようなセレモニーがかなり盛大に行われたようで、感動的でした。

私自身は、行けなかったのですが、そのように、施設にとっても一つの喜ばしい事例だったようです。

この事例のまとめとして浮き彫りになった法的問題について少しご紹介したいと思います。

一つは先ほど申し上げましたように、障害者総合支援法の条文上、重度訪問介護サービスというのを障害児が利用できないことになっています。

そのため、重度訪問介護とは異なるサービスを探さざるを得なかったというような事情があります。

この辺は、立法的に解決がなされるべき問題だと考えています。

次に障害児に対する訪問系介護に関する運用の問題ですが、この施設および運営に関する基準、正確に言うと、これは、障害者の日常生活の何でしたか。

日常生活および社会生活を総合的に支援するための法律に基づく指定障害者支援施設等の人員、施設および運営に関する基準ということになりますが、それの192項というのがあって、指定居宅介護事業者は、前項の規定による記録、要は事業者が居宅介護をする都度に行う、こんなことをしましたという記録、これをするに際しては、引き受けて障害者等から指定居宅介護を提供したことについて確認を受けなければならないと規定しています。

この支給決定障害者等というのは、障害児の場合にはその保護者ということになるので、指定居宅介護を受けたことについては、保護者が確認をしなければならないということになっています。

これが、どう解釈したらそうなるかはっきりわかりませんが、自治体側からすると、結局保護者がその場に障害児と一緒にいて介護現場にいて介護を受けたということをしっかり確認した上で、サインしなければならないと解釈をしているようです。

そのため、結局保護者は、例えば外に仕事に出てその間にヘルパーに障害児の介護をしてもらうというようなことができないわけです。

そうしますと、障害児が自宅で障害福祉サービスを受ける場合に、保護者の生活が著しく制約を受ける状況になりますので、この点については、運用上の問題点を自治体に対してしっかりと主張していく必要が今後出てくると考えます。

以上私の担当した事例についての報告でした。

どうもありがとうございました。

 

(長岡)和田さん、ありがとうございました。

障害児についての事例ということで、重度訪問介護が使えないという立法的な問題がある中でも、重度障害者等包括支援を使って活路を見出したというケースになると思います。

まだまだ障害児について長時間介護の必要性というのが社会とか自治体に認識されていないという問題があります。

その中で居宅介護が、親がいないと使えないと、とても由々しき問題で、おかしな理屈で、それがまかり通ってしまっているということで、今後も活動が必要だなと思います。

どうもありがとうございました。

 

では、次の事例に行きたいと思います。

群馬の弁護士の下山さんからお願いします。

 

 

(下山)介護保障ネットの会員をしております。

群馬の下山です。

私からは、前橋市に住まれている方の事例報告をさせていただきます。

先ほど報告のあった幡野弁護士ともこの案件は一緒にやっているということになります。

画面共有をさせていただきます。

今回の前橋市に対して支給量を求めている当事者、ここではH さんと書いてあります。

この方は脊椎骨端異形成症という重度疾病を有しています。

あまりこれは聞き慣れない疾病名かもしれませんが、これは、2型コラーゲン変異で、骨や軟骨の成長に異常をきたすと、この他、眼の異常、難聴、多様な症状を発症するといわれています。

このHさんは、ここに書いた通り、関節変形や拘縮のために四肢に重度の麻痺がありまして左手がわずかに伸ばせる程度なんです。

つまり四肢麻痺の程度は重度で、現在区分も、6ですか。

人工呼吸器などもありません。

このHさんですけども、当初は群馬県桐生市。

お母さんと一緒に生活をしていました。

区分も徐々に上がっているっていうのがありまして、平成28年で、区分4、この頃から重度訪問介護108時間、月108時間利用しその他にショートステイや生活介護を利用し、その他お母さんから、介護を受けて生活していたと。

両親は既に離婚をしていて、お母さんの介護で生活してきたことになります。

こうした生活をしてきたところお母さんががんのため短期入所してしまうということがあり、在宅での生活が無理だということで、ここから短期入所の生活が始まったということになります。

ただですね、このHさんについては在宅に戻りたいという思いが強く、いろいろご自身で調査をされたようでして、その所沢市の「一人暮らし支援会」というところに何とか相談に行くことができたということがありました。

CILの所沢の援助もあって所沢市内のグループホームに入居すると。

さらに、このときに、単にグループホールに入るだけではなく、重度訪問介護256時間も一緒に得て、区分も6に、ここで変わったという状況です。

この後、やはり、支援者が所沢だったということで、群馬から所沢に移転したわけですが、群馬に戻りたいということで群馬に戻るという話があって、弁護士に依頼をして、前橋市に重度訪問介護を求めて申請をしようということになりました。

そこで申請をしたのが、令和39月のことでして、817時間の重度訪問介護を求めて前橋市に事前申請をしたと。

引越し前に、引っ越したらどれぐらいになりますかという形で申請をしたわけです。

もちろんこれは事前申請とありますが、採澤さんのお話の通り、当然、詳細な介護記録と写真、医師の診断書陳述等々、かなり詳細な記録を作ってここで終わらせるつもりで、申請をしたわけなんですが、前橋市の回答は非常に冷たいもので、支給基準内、すなわち最大430時間にとどまると。

こういう考えを示されて、これではとても生活ができないということで一旦取り下げをしました。

その後に、前橋市に戻れないということで、一旦は所沢市で生活をしようということで、グループホームから一人暮らしに移行し、重度訪問介護の申請をしたところ、これが、806時間というものが、簡単に出てしまうという状況でした。

こうした状況で、所沢市での生活というのも考えられたとは聞いてはいるんですけど、やはり、元々群馬の方ということもあって群馬に戻りたいということで、前回は、事前申請ということで、引っ越したらいくらになりますかみたいな聞き方をしてしまったところもあったので、今回の場合は、引っ越して、本申請をしようということで、令和42月にその日に、申請書をしっかり用意して、前橋市に行って申請をしたと。

そうしたところ、前橋市は、定型上限460. 5時間を早々に支給決定したんです。

1人分の支給量は4302人分で460ということで、ここには理由が特に付記されてはいなかったということがあります。

その後前橋市は、審査会を開いて536時間が相当なんだという見解を示したんですが、特に職権で変更決定はなく、なぜ536時間が相当と判断したという理由もわからなかったと。

こういった場合、我々は個人情報開示請求をして、審査会の議事録を確認するんですが、その審査会の議事録を確認しても、各審査員が自由にいろんなことを言っていて、なんでこの時間の支給決定されたかわからなかったということです。

その536時間というのは障害福祉課の作った支給量案なわけですが、障害福祉課もなぜこれが正しいかということについて明確な根拠を示していないということがありました。

個人情報開示の結果、事前審査の審査会の資料も出てきたわけですが、ここを読むとなかなかひどい意見も書いてあって、前橋市に行けば福祉が得られ、他の市町村よりも住みやすく、前橋市で生活しようと考える人が増えるとなると、これは前橋市の福祉政策にも関わってくる。

ということが書いてあったんですね。

そもそも群馬県内一般に他県より水準が低くて、この申請を認めたからといって住みやすいということになるとも思いませんし、支給水準を上げると、多く移住してくるという話も、かなり妄想に近いのかなと、とんでもない意見があったわけですね。

なかなかこんな審査員がいると、なかなか難しい状況があって、前橋市は規定上、審査会に諮って支給量を自治体が決めるんだというふうにはなっているんですけども、結局どこの自治体でも多かれ少なかれあると思うんですけれども審査会が不透明な理由で、支給量の上限を決めてしかも、はっきり理由を示さずに、そういう審査会を盾にして支給量をコントロールしていくとこういうことがかなり露骨に行われていたということです。

CILの方の交渉も高圧的で、CILの方に言わせると、群馬の行政のこの対応は、10年前の交渉の様子を見ているようだと言われることもありました。

なかなか非常に運用もひどく、どうもこれは推測もあるんですけども。

どうも前橋市では、支給量の申請は事前に全てすりあわせをした上で、審査会に出すという運用があって、なので、他の支給量と違うものが出てくるということもなかったようですこうしたことがHさんから依頼を受けた私達は、令和4411日に、これもなかなかの審査請求で難しいと思ったところもありまして、訴訟提起ということになりました。

現在、訴訟から1年以上経っていて支給量の更新などもあった結果、490. 5時間、2人介護分を除いた支給決定がされています。

これを聞くと前橋市全てが悪いように聞こえるんですけどもあくまで関係者から聞いた話ですと、気管切開をなされたALSの方に関してはかなり高い支給量、24時間に近いものが出ていると聞いているところです。

裁判の争点ですけど、理由を示さない。

理由を示さないということです。

訴訟に選考して審査請求が求められてて、そうしたところ、前橋市は新しい再処分をして、ようやくここで、ちゃんとした理由を明示してきたんですね、ここに書いてあるのは前橋市では、人工呼吸器をしているという条件を満たすと、124時間出すという支給基準があるんですけど、人工呼吸器していないから支給基準を満たさないということが一つあって、もう一つは、これはよく意味がわからないんですが提出した介護状況に関する報告書、1日の介護記録を勘案して、朝昼晩夜間で必要な支援を行うこととしてオムツ交換や体位交換の頻度から支援の空く時間は2時間程度が限度であると、こういう内容でした。

要するに巡回介護をすれば十分だなと。

一つ典型的な主張で2時間程度の介護の空白が許されるということなんですけど、なんでこれが許されるのかという根拠が全く示されていないものでした。

こうしたことから、これも申請段階から既に準備されているものではありましたが、介護期医療記録や医師の診断書ですね、写真撮影報告書、後から介護の空白はそもそも存在しないんだと、医師の診断書にも、日常生活動作に全てに介助が必要ということに加え、疼痛緩和、褥瘡防止、痛み抑制の観点から、常時24時間介護が必要だと書いた物を提出して、分単位の介護記録も提出して、空白はないということを示しているわけです。

三つ目に争点になるのは、所沢市では月806時間が認められていたのに、前橋市に引っ越しをするといきなり490. 5時間になってしまうというのでは、これは憲法が保障した生存権法の下の平等に反する。

のではないかとさらにですね、住みたいところに住むという権利も認められないと。

こういった憲法問題も、ここにはあるということを主張しているところです。

弁護団としては、Hさんの安心した自立生活を実現するために引き続き頑張っていきたいと思っています。

群馬からは以上です。

 

 

(長岡)下山さんありがとうございました。

私から3件コメントをしたいと思います一つ目は地域間格差の問題でこれは本当にこの事案を通じて感じる大きな問題で、介護保障ネットとしても全国どこでも等しく、必要な支給量を得て、地域で生活ができるということを目指していきたいと思います。

とても大事な事案だと思います。

2点目、訴訟をしないといけないと。

こういう事案があって、市町村の中にはやはり強硬なところがあると。

行政交渉で一点突破できればいいということではあるんですけれど強硬な市町村があるので審査請求とか訴訟をそして行政交渉と、フルに活用して、事案に応じて、それらを活用して頑張っている事案ということかなと思います。

それから、理由付記ですね。

3点目として、この理由を示さないという点のおかしさということを言っていまして、これは行政手続き法という法律で、一部拒否処分、満額回答ではない処分をするときには、その理由を示さないといけないということがあって、強硬な市町村に対応するときの一つの武器になりうると思って介護保障ネットとしても意識的に取り組んでいるところです。

これは単に理由を知りたいということではなくて、まともな理由を書けないような決定をさせないということだと思っています。

大体理由を書いてないんですよね。

でも、理由を言わせると、意味のわからない説明しかできないということがあって、その理由はおかしいでしょうということで、そこから、交渉の突破口を引っ切り拓いていくということをイメージするということなのかなと思っています。

難しい状況の中で奮闘している、そういう事案だと思います。

どうもありがとうございました。

 

では、続きまして、事例報告としては、最後になります。

東京の当事者天野茂さんと佐藤諒一弁護士からご報告いただきます。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

(佐藤)弁護士の佐藤と申します。

よろしくお願いします。

東京の立川市で弁護士をやっております。

この天野さんの件なんですが、支給申請時間が満額認められるという結果を得ることができましたのでご報告させていただきます。

この事件は、先ほどご報告があった
幡野先生と、それから私の事務所の先輩の田所先生と一緒にやった事件になります。

画面共有をいたします。

多摩市弁護団と書きましたけれど、申請者は天野茂さん多摩市にお住まいの方です。

1950年生まれで申請時は72歳。

東京は1級で区分6になります。

ALSの診断を2014年に受けていまして、2018年から重度訪問介護の支給を受けて自宅で生活されておりました。

申請前の状況ですけれども、2018年から自宅で生活をされていたのでそのときから重度訪問介護の支給を受けていらっしゃいました。

ご自身で要望書とかを、市役所の方に、独自に提出していまして、その努力の結果、年々支給量が増加していたんですけれど、全然十分な支給時間は得られず、2022年、我々に依頼をいただく前ですけれど、重度訪問介護573時間介護250時間、介護医療保険が45時間ということで、問題の実態なんですけれど、ALSで全身の随意筋を全く動かすことができず、音もほとんど肉眼ではわからないくらいの手首の筋肉の動きでパソコンとかナースコールを操作しながら生活していた状態でした。

気管切開もしていて人工呼吸器を使っているのでコミュニケーションも発語不能でコミュニケーションに苦労される方で、心身機能を維持するためにできるだけ車椅子で生活されることを意識されておられて、外出での社会参加も積極的に希望されているという方でした。

症状から見て明らかに24時間介護の必要がある方で、特に、リフト移乗、車いすに乗るときそれからベッドに移るとき、あと便処理のときに関しては2人、介護はほぼ必須という安全性の観点からほぼ必須という状態でした。

ですけれど、2020年までの2022年までの市側の回答としては、24時間介護それ自体は必要だねとは認めているんですけれど、リフト移乗と便処理に関しては2人介護は必要ないということで、あと家族介護ご家族奥様と、それから別居なんですけれど息子さんが介護に携わっておられまして、その家族介護を13時間として支給時間を差し引くという形で573時間と計算して支給している状態でした。

ですけれど、実際の負担としては、家族と息子さんが、2人目介護が必要な分と13時間加えると、とても市側が考えるような13時間で収まりきらない状態で特にご家族の負担がかなり多くなっている状態というところで、我々のところに依頼が来たというところでした。

それで、申請内容ですけれど、24時間介護744時間は前提としてそれに加えて2人介護を求めました。

介護医療保険の45時間差し引いて857.5時間、それから外出介護支給時間の自由に活用させてくれという形で支給したところ、申請が通りまして、市から満額回答を得られたというご報告になります。

満額の支給が認められた要因としては、大きく4点ほどあるのかなと思っています。

まず、ここに書かせていただきましたけれど、申請者の熱意と書きましたけれど、天野さんは弁護士介入前から相当詳細な申請書を作成しておられて、我々が介入した段階でとりあえずこれを見ておけば実態がほぼ把握できるよねという状態で、すごく詳細な申請書ができていましたのでそれで実態の把握がすごくスムーズにできたというのが一点大きかったのだと思います。

それから、ご本人が、ヘルパーさんとか医療関係者に独自のアンケートを実施しておられてその中でかなり詳細に意見が現場の意見が収集されておりまして、これも最終的には意見書に添付して提出して2人目介護の必要性をより強調できたと思っております。

あと、なかなかリフト移乗ってどういう形でやっているんだろう?と素人の私達にはよくわからなかったんですけどご本人がYouTube上に動画をアップしていましてこれはかなり160万回再生されるような、すごく反響を集めているものになるんですけれど、実態を伝える何よりも資料だったのでこれも意見書に添付しまして、申請しました。

とにかく弁護士が介入する前から天野さんご自身で多数の資料を集めておられて弁護団としても意見書の方向性を明確に定めることができたので、その後は足りない資料集めるだけという状態だったのでとても助かったというのが第1に大きかったかなと思っております。

それから、2点目は、家族ヘルパーケアマネの協力と書きましたけれど、ご家族の方、弁護団とこまめに連絡を取って介護実態を詳細に説明してくださいました。

それから、奥様とそれから、別居の息子さんの陳述書の作成もスムーズに行うことが出来ましたしケアマネの方ヘルパー医療関係者の方、アンケートに協力してくださったり、ものすごく熱心に協力してくださって、その結果、短いスパンで必要な資料をかなり揃えることができたのかなと思っています。

あと3点目、これも大きいんですけれど、市側担当者がすごく熱意のある方で、意欲的な姿勢を見せてくださったのが大きかったと思っています。

2022年までは認めてくれなかったんですけれど2023年から担当者になった方がかなり熱心な方で、意見書を提出する際も我々に対して一時間ほど面談をさせてくれたりしたので、面前で説明しながら支給の必要性をアピールすることができたと思っています。

それから、2人目介護についてもこれは必要だねという形で、かなり積極的に動いてくださったのでそれはとても助かりました。

我々としてもそういった担当者だったので、対立姿勢を築くことなくむしろ協力体制で何が足りないとか、どういうところに疑問を持っているというのを把握しながら意見書に反映し、できたのが大きかったと思っています。

それから、必要性のところですけれど、リフト移乗、便処理の実態の伝え方と書きましたけれど、先ほど、ご紹介した天野さんのYouTube上の動画を添付したり、アンケート添付したり、それからケアマネの方に陳述書を作ってもらったり、理想のケアプランを作成してもらったりとか。

多数の関係者の協力を得られることができたのがとても大きかったです。

天野さんご本人からも意見書の内容について補足いただいてより説得力のある文章に仕上がったと思っています。

最後に、地域間格差是正の課題と書きましたけれどこれは、私も天野さんも感じていらっしゃるところであるんですが、天野さんの場合、弁護団が入る前から家族の負担がかなり重くて介護の素人の私から見ても、2人目介護の必要性は明白だったと。

明白でした。

そのため、本来だったら、2022年の段階で認められてもよかったんじゃないかなとは思っているんですけれど、それは、昨年までの市側の対応としては介護実態を過小評価して2人目介護は絶対認めなかったと2023年から新しい担当者に代わって弁護団も介入したのでスムーズに認められたんですがだとしたらなんで去年は認められなかったんだろうという疑問は今も残っているところです。

先ほどの、事例の中でもありましたけれど、市側の対応次第で支給を同じ状況でも支給を受けられる人、支給を受けられない人がいるという状態が生み出されているのが、今回、成功事例にはなると思うんですけれど、そういった実態をちょっと感じてしまったのが今後の課題なのかなと思っています。

私の報告としては以上です。

あと、ご本人の天野さんからご説明いただこうと思っています。

よろしくお願いします(天野)天野茂の発言は、画面共有をして、発言ビデオを流します。

ちょっとお待ちください。

 

 

天野茂と申します。

読み上げソフトを使ってこれまでの経過と重度訪問介護制度について発言します。

1これまでの重度訪問介護配当時間、重度訪問介護は2017年呼吸器をつけ、在宅生活を始めてから、20187月まで126時間でした。

20184月、妻が大腸けい室炎悪化で緊急入院。

ぜひ抽出も加えて研究の体制で事業所や息子、友人の協力で乗り切る188月から259時間133時間増、198月から313時間54時間増、夜勤週1日可、208月から353時間40時間増、夜勤週2日可、20219月から393時間40時間増、昼間の不足時間に充てる配当時間が足りず妻だけでは困難でやむを得ず別居の息子に助けてもらって切り抜けている状況が続き、家族に過重な介護負担がかかっていた、第2122年、昨年の申請にあたり、重度訪問介護制度の学習をした2022116日に開催された患者向けワークショップ、日本ALS協会主催オンラインシンポジウムに参加。

テーマは全国どこでも24時間介護体制は作れます。

ALS患者が自宅で家族の過重な介護と負担なしに暮らせるようになるには重度訪問介護での24時間介護体制が必要であることが背景にある。

2、重度訪問介護制度について事例紹介、全国障害者介護保障協議会事務局長などの説明があった。

支給決定に際し障害のある人一人ひとりの個別具体的な支援の必要性を考慮すべき重度訪問介護制度は十分に知られていなく地域間格差があり改善が必要など、また紹介された介護保障ネットURLより全国の事例を知る。

3シンポジウムで説明してくださった全国障害者介護保障協議会事務局長にメールで申請書の書き方についてアドバイスをいただき、申請書を作成した。

決定通知、重度訪問介護支援を支給を573時間外出支援2人目分としてプラス50時間、4573時間では過重な家族介護負担が続くので変更申請をした。

結果は却下現状をわかってもらうには私に関わっている人たちの声をより多く市役所に届けようと思った。

323年申請について、私の基本的な考え、強力な理解者支援者をふやし市役所に声を届ける。

交渉が心身ともに大きなストレスなので、弁護士へ交渉代理人位に交渉するにあたっては市役所とはこれからもずっと福祉サービスを利用し続ける関係にある。

実態要望を丁寧に伝えて理解を求めていくように依頼。

B2023年申請書の具体的な内容を弁護団に説明し理解してもらうことに尽力。

弁護団がよく理解した上で作成した意見書を提出。

C、医師への説明、診断書審査申請書に添える意味説明。

D、ケアマネージャーにケアプラン作成とチーム天野の会の開催を依頼。

E、在宅生活をさせるチーム天野の声を届ける。

却下理由リフト移乗便処理はヘルパーさん1人で行うことができるに対してリフト移乗についてアンケートの集計結果、集計結果を読んで、天野茂リフト移乗の動画紹介も。

F、家族介護の実態説明却下理由、家族介護13時間月93時間が妥当に対して妻が介護関係に費やしている時間集計表など第4、支給決定857. 5時間を受けて、私は週3回の外出をし、買物公園散策映画コンサートなど自分らしい人生を過ごしたい。

妻は近くの公園にラジオ体操に行き朝食をゆっくり食べられるようになった。

残りの人生を悔いなく過ごしてもらいたい。

2人体制の中でヘルパーさん同士で長所経験を交流し学び合いが進んでいる重度訪問介護の支援に感謝します。

5以上取り組んでみて思うこと、ALS当事者が在宅生活を発信し、理解を広める。

在宅生活を支えている人たち多くの人たちと協力協働する。

地域間格差を是正する必要を感じている。

全国の経験を学び交流し、ALS在宅生活が充実することを願います。

(佐藤)天野さんありがとうございました。

多摩市の弁護団としては以上になります。

 

(長岡)佐藤さん天野さんありがとうございました。

最後に、チーム天野、とても元気の出る報告だったと思います。

事例報告は以上になりますが、介護保障ネットの方で担当した過去の事例の書籍があります。

「支援を得てわたしらしく生きる!」という山吹書店から出版されているものがありますので、ぜひお買い求めいただければと思います。

また、介護保障ネットのホームページでも24時間介護を獲得した成功事例の記事を多数紹介しております。

無料でどなたでも見られますので、こちらもぜひご参照ください。

では、事例報告は以上です。

司会に戻します。

 

 

(平下)皆さんありがとうございました。

以上をもちまして、介護保障ネット11周年シンポジウムを閉会します。

長時間にわたりご清聴いただき、ありがとうございました。