視聴者の皆様大変遅くなり申し訳ございません。

想定外の不具合がありまして、配信が遅れたことを大変お詫び申し上げます失礼致しました。

これから介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット9周年シンポジウムを開催させていただきます。

私は介護保障ネットのスタッフの採澤と申します。

本日司会を担当させていただきますよろしくお願いします先ほどと同じような不具合が生じる可能性もありますので、視聴者の皆様には申し訳ないのですが、もしかしたら途中で中断させていただくことがあるかもしれませんが、その際はどうぞご容赦いただければと思います。

何らかの形できちんとしたものを配信できるようにさせていただこうと思います。

それでは改めまして、開会の挨拶をさせていただきます。

開会に先立ちまして、3点ご案内します。

1点目は、本日の資料ですが、ホームページから介護保障ネットのホームページからダウンロードいただけます。

今ご覧の画面の、概要、ABOUTと書かれているタブをクリックしていただければリンクがありますのでそちらをご参照ください。

2点目です。

お手持ちのスマートフォンかパソコンで文字通訳を見ながらご視聴いただけます。

文字通訳をご希望の方は介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネットのホームページのQRコードからアプリをダウンロードいただきご利用いただくか、Webブラウザでご利用ください。

3点目です。

本日はご質問をお受けすることはできませんが画面上のQ&Aをクリックしてコメントを入力いただきます。

当会の今後の活動の参考にさせていただきますのでぜひご協力をよろしくお願い致します。

ご案内事項は以上です。

さて本日のシンポジウムのテーマは「生きる場所は自分で決めたい」です。

障害があってもなくても、どこで誰とどのような生活を送るか自分で決めることは人として生きる上で当然の権利です。

しかし実際障害があることを理由に、住みなれた地域を離れ、病院や施設で生活することを強いられる人がたくさんいらっしゃいます。

本日シンポジウムでは筋ジストロフィーなどの重度障害の人たちが長年にわたり入院生活を余儀なくされてきた実態について筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクトのメンバーでご報告いただくほか、長期間の入院生活から地域生活への移行に成功した具体的な事例をいくつかご紹介させていただきます。

当事者の立場から支援者の立場から地域生活を送るために必要なものが何かを一緒に考えていきたいと思います。

 

 

 

それでは、プログラム第1部を始めます。

 

 

 

まず、長期間の入院生活から地域で自立生活を送ることを決意し、実現した大分県の芦刈昌信さんの動画をご覧いただきます。

動画を作成された自立生活センター大分の押切さん、動画の紹介をお願いします。

押切/皆さん初めましてこんにちは大分県別府市にある自立支援センターおおいたの押切と申します。

今回今年の8月に自立生活を実現さられた芦刈さんの自立までの道のりを15分ぐらいの動画ですが作成したので、皆さんに見ていただければと思います。

よろしくお願いします。

 

 

 

/親と説得するためには、気持ちを素直に伝えることが大事だと思います自立したら、みんなで一緒に飲みに行きましょう。

心配ないからね、君の想いが両親に届く。

自立はきっとある/芦刈くん、秋田の芦谷です。

自立生活は大変だけどやる気さえあれば周りのみんなが協力してくれるので、頑張ってください。

応援してます。

/アッシーおつかれ、前科持ちのカズです。

あっしーのために、髪をピンクに染めました。

明日はいよいよ決戦のとき。

あっしーならきっと大丈夫。

一緒にラーメンを食べに行ける日を心待ちにしています。

アディオス!あっしーがんばれ。

おでこのところに支えるのがあって、

 

 

/今の気持ちはどうですか。

/嬉しいような、ちょっと寂しいような。

そんな感じがして。

 

 

 

刺身とビール最高です。

 

 

 

 

 

「あっしーの自立」、いかがでしたでしょうか。

皆さんの支援を得ながら、芦刈さんが自立生活を始める姿はとても印象できたね。

冒頭で申し上げたように芦刈さんが長年、入院されたような病棟は全国各地に存在しており、いまだ長期間の入院生活を余儀なくされている人たちはたくさんいます。

この筋ジス病棟の実態と、地域生活への移行を支援する活動について、筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクトのメンバーである、日本自立生活センターの岡山祐美さんから報告していただきます。

 

 

 

 

岡山さんよろしくお願いします。

岡山/今ご紹介にあずかりました岡山祐美と申します。

私からは、筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクトについてご紹介させていただきます。

ちなみに、私自身も障害当事者です。

普段は、京都市にある日本自立生活支援センターJCILに所属していて、24時間、介助で地域生活を送っています。

では早速、ではまず、そもそも筋ジストロフィーとはどういう病気なのか。

筋力が低下していく疾患です。

筋ジスにも多くの型、種類がありまして、発症時期や症状もいろいろです。

その中でもデュシェンヌ型が最も有名です。

幼少期に発症し、結構重度化していきます。

筋ジス病棟入院患者の中では、このデュシェンヌ型の方が一番多いです。

ですが、筋ジス病棟入院患者全てが筋ジスではなくて他にSMA脊髄性筋萎縮症や、いろんな種類の各種ミオパチー、ASLなど重度障害の方、医療的ケアが必要な方がたくさんおられます。

次に、筋ジス病棟とはどういうところかです。

もともとは、傷痍軍人や結核の療養病棟国立療養所だったところが、親の希望などもあって、政策医療により、筋ジス病棟に転用されたようです。

現在は、医療制度上の病棟でありますと同時に、障害福祉制度上の療養介護施設という二つの性質を持ったところです。

全国26施設2400床ほどです。

長期入院の人ほど、地域移行が困難で、幼少期より30年以上入院の方もいらっしゃいます。

集団生活なので、制約が多く、障害が重度化されている方も多くて、人手不足が深刻です。

次に、筋ジス病棟からの地域移行がどんな感じなのかを少し、地元の京都市にある宇多野病院のことを紹介しながら、話します。

 

宇多野病院は京都駅から北へバスで50分ぐらいかかるところです。

山手にあります。

40名ぐらいの方がおられます。

右の写真が、筋ジス病棟のすぐ裏手にある、八重桜がとても綺麗ですが、裏口から見えるんですが、なかなかベッドの上でずっといて、全く見に行けない方も結構多いと思います。

次に、地域移行者の紹介です。

4名紹介しますが、時間の関係で、かなり軽くいきます。

右下に黄色い枠で囲ってあります。

ネット上に記事を紹介しています。

こちらにアクセスしていただいたら読めるようになっています。

QRコードも付けていますので、ぜひ見ていただけたらと思います。

お一人目は植田健夫さんです。

この方は2018年に地域移行された方です。

この方は割とスムーズにいった方で、カフェ巡りが好きです。

今もカフェ巡りとか、植田カフェという企画をされて楽しんでいます。

次が、野瀬時貞さんです。

この方は2019年に地域移行されました。

この方は病院内で退院前、絶食されていたり、外出も車椅子移乗を制限されていたり、ほとんど外出できずに地域移行しました。

今はもう好きなものを食べて、美味しそうに何でも食べて、外出もされています。

後ほど紹介する藤田さんのピアサポートなどしてアクティブに動かれています。

次が、藤田 紘康さんです。

こちらの方は、去年、退院された方です。

この方は全く外出ができずに一度も外出できずに、それもコロナの中で、地域移行されました。

右の写真は、地域移行のためにやっと車椅子移乗が、その練習が許されて太陽の下に、数年ぶりに出られました。

病院の中ですがそのときの写真です。

次が田中佑磨さん、この方も、藤田さんと同時期に、去年退院された方です。

この方は外出できていましたが、コロナ禍での地域移行だったので、後半は全然外出できずにという感じでした。

藤田さんと田中さんに関しては、コロナで支援者が入れなかった、病院に入れなくなったので先ほどの芦刈さんのように、リモートで整えていったという、なかなか大変な中での地域移行でした。

先月無事一周年を迎えられて、今お2人とも外出したりとか、好きな趣味を楽しんだりとか。

お二人だけはなく4名ともですが、とても生き生きと過ごされています。

 

ここから本題です。

筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクトとは、どういうプロジェクトなのかです。

発足が20192月の3日です。

きっかけが、また、後で宮本弁護士からお話があると思いますが、金沢の病院に入院されていた古込さんや同じく金沢医療病院の斎藤稔さん、この方は、地域移行を希望しながら亡くなってしまった方ですが、そういうような方々に地域移行への道が阻まれる。

そもそも地域生活という選択肢がされず、筋ジス病棟で一生を終える人がそれなりにおられる一方で、同じ重度障害者でも、必要なら24時間介助を得て、地域医療や医療的ケアを得て、ずっと地域生活できている重度障害者もたくさんいるという現状を、私達は目の当たりにしていました。

このように、重度の方ですが、愕然とするほどの大きな格差があり、この状態を何とかしたい。

重度障害者もみんな当たり前に地域で暮らせる社会にしようということで、発足しました。

目的としては、日本全国の筋ジス病棟を、体制として、地域に開かれたものにする。

具体的には、入院患者さんとの繋がりを作ったり、筋ジス病棟からの地域移行の促進、入院患者の処遇改善などを行っていこうということです。

メンバーは全国のCILを中心とした障害者団体の障害当事者と支援者、あと筋ジス病棟出身者の方、研究者の方、ジャーナリスト、医療関係者、法曹関係者などたくさんの方に参加いただいています。

活動内容はたくさんありますが、時間の関係上端折ります。

次に、アンケート調査結果報告書が今年完成しました。

これは、発足当時からアンケートをとろうことで始まったのですが、筋ジス病棟の現状を知るために、特徴としては、障害当事者自身が病棟に入り、ベッドサイドで患者に直接聞き取りを行った。

そういう点が最大の特徴です。

障害を持つ者同士、ピアだからこそ、心を開いて赤裸々な言葉が語られたと思っています。

つまり、入院している当事者の生の実態を伝える報告書となっています。

先月報告書完成記者会見を行いましたが、その模様が、たくさんメディアに取り上げていただいているので、ぜひ見ていただけたらと思います。

右下の四角のところにもご紹介しています。

報告書で明らかになったことです。

まず、制限が多く、抑圧的な状況。

時間や回数制限が多くて、看護師や介護士の顔色を伺いながらケアや介助を受け入れざるを得ない。

そして、患者と医療者間の権力格差、パワーバランスの悪さですが、安全管理やリスク回避の名のもとで、入院患者の意思や希望が尊重されず、本人が納得できない、ドクターストップを受け入れざるを得ない。

それから虐待と思われる処遇や筋ジス病棟の閉鎖性、コロナ禍での厳しい制限、女性患者への二重の抑圧についても多くの声が寄せられました。

ただ、今述べたようなことは、この状況は決して病棟の現場レベルだけの問題ではなくて医療と福祉のはざまにある筋ジス病棟の法制度上の位置づけや慢性的な人手不足といった構造的な背景に起因していると考えられました。

要するに病院のせいではなくて、制度や仕組みの問題であると私達は捉えています。

アンケート結果報告書ですが、目次を載せています。

これはインターネット上で誰でもダウンロードしていただいて、見られるので、筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクト、ノートで検索いただいたら、そこからダウンロードしていただければいいので。

ぜひぜひ皆さん読んでください。

 

このプロジェクトの今後の活動予定ですが、厚労省や国連障害者権利委員会になるといったところにアンケート調査結果報告書をもとに政策提言を行っていきたいと思います。

その内容としては、地域移行、脱施設化の仕組み作りや入院患者の処遇改善といったことです。

それから次に、引き続き入院患者さんたちと繋がっていきたいと思います。

これは、今も定期的に行っていますが、病院患者さんたちとZoom交流会、そして当事者相談に乗ったりなかなか人数が少なくて、女性ということで、見えにくい、女性入院患者へのアプローチなどを行っていきたいと思います。

 

この筋ジス病棟の問題。

地域移行を普通にできるようにしていきたいと私達は思っています。

それは本人の努力や能力とか人柄とかそれによるものではないという、そういう意味で、普通に誰でもできるようにしていきたいと思っています。

そして、地域に暮らしながら、必要なときは入院して適切な医療を受けられて、安心して地域で生きられるような社会を目指していきたいと思います。

筋ジスプロジェクトの紹介は以上です。

ありがとうございました。

 

 

 

司会/岡山さんありがとうございました。

それでは、その筋ジス病棟から退院して地域生活を実現された石川県金沢市の事例について私達、介護保障ネットの弁護士として活動してくれた宮本研太弁護士からご報告します。

宮本さんよろしくお願いします。

 

 

宮本/画面映っていますでしょうか。

石川県金沢市で弁護士をしております宮本と申します。

今回、私が関わった古込さんの退院報告についてその経緯であったりとか。

感じたこと、何かを簡単にご報告させていただきたいと思います。

今回の報告に当たって、古込さんの資料をいろいろ見返しました。

その中で特にまた、心を動かされた資料がありましてね。

それが、今ちょっと画面に映ってるかどうかわかりませんが、感動との出会いを求めてという、当時、古込さんが通われていた。

医療養護学校の先生がまとめられた。

文集というか。

資料になります。

古込さんの生い立ちから、医療養護学校に入られて、囲碁クラブで奮闘される様子が克明に書かれていて、私も改めて非常に胸を熱くした部分がありました。

では早速、それも踏まえまして報告の方をさせていただきたいと思います。

画面共有します。

 

退院報告ということで、今回、古込さんの退院支援報告についてですが、まず、ご本人、その家族について説明をし、申請に至る事実経過とターニングポイント。

これがあったから、うまく地域移行できたんじゃないかというふうに考える点、その辺を説明させていただき、三つ目に、実際に地域移行した後の生活の様子。

四つ目で最後、簡単にこの活動通して、考えたこと感じたことを述べさせていただきたいと思います。

古込さんは石川県の病院に8歳の頃に筋ジストロフィーということで入院され、それから45歳まで。

その間、約37年間長期の入院生活を続けてこられた方です。

ご出身は今スライドに出ていますが、石川県輪島市という場所で生まれた方で、自然豊かな場所です。

病院は車で約2時間半ほどかかる場所にありますなので、ご両親もかなり通われて苦労されていたんじゃないかと思いますけれど、そういった環境で古込さんはずっと入院生活、病院生活を続けてこられました。

余談にはなりますが、スライドの下に書きました。

輝かしすぎると書きましたが、囲碁の戦績がありまして、古込さんは養護学校にいた間、囲碁に熱中されて、数々の成績を収めてこられました。

古込さんはこの辺の話は全然してくれなかったので、私は先ほどお示ししたい資料を見て、こんなにすごい実力というか、レベルだったんだということをまさに感じた次第です。

全く制限のない、言い方は語弊あるかもしれませんが健常者の方と完全に同等で、何のハンデもない中で、ここに書いたような高校生の時に県大会で優勝したり、北陸地区で優勝したりという戦績を収められるような実力があったようです。

今スライドに映しているのが古込さんです。

古込さんは筋ジストロフィーで全身の筋力がほぼ全廃の状態で関節は拘縮していて、人工呼吸器なしでは呼吸できない状態でした。

食事摂取や移動、ベッドへの移乗、排尿排便、衣服の着脱等、日常生活全般で介助が必要でした。

実際の様子を動画で撮ったものですが、移動の際にということですが、本当は古込さんと楽しいことをしているところの動画があれば良かったんですけど、こんな動画しかなくて、本人に申し訳ないと思うんですが。

こんな状態で、こんな感じで病院内でストレッチャーに移動されて、病院内を移動したり外出していたということです。

申請までの事実経過ですが、何が良かったかという点を振り返ってみますと、実際に、申請してというか、地域で生活するまでやろうと決めて動きだしてから19ヶ月かかりました。

かなり期間としては、長時間かかってしまったというところですが、その間、毎月1回、院内会議ということで、全く私も、これいうものに携わったことがなかったですし、詳しい人間も周りにいない。

もちろん、ネットでいろいろな先輩の先生がたからご教示いただくことはありましたが、石川県で、なかなかそういった例がない中で、みんなわからない中、手探りでやっていたということです。

1回の院内会議をして、それぞれのギャップを埋めていったということです。

また、これが少し変わり目だったかなと思うところですが、支援する人たちを徐々に広げていく中で、途中で地元の訪問看護をされている看護師の方や他の病院でこういった活動をボランティアで、熱心にされていた現役の看護師の方が関与された、関わってくれたというところが大きかったかと思っております。

それまでは我々は古込さんのサイドの支援する側と、病院側とで、お互いに反発はしてはないけれど、ちぐはぐなというか歯車がかみ合わない感じがあったんですけれど、そこにある意味、通訳者というか、その間を通してくれる存在として、今申し上げた方々が活躍してくれたと感じました。

病院の先生や看護士さんが動きやすいようなスケジューリングや表現だったり、それを、病院側の一体何が問題だということを我々にわかりやすく解説してくれたり、そういった役割をしていただいて、このあたりで非常にようやく現実味を持って動き出したかなと思っておりました。

そういった中で、実際に申請をして、さらに市役所の職員とも複数回、協議をしました。

なにぶん初めてのケースでしたので、市役所の方とも間違いがないようにということで入念に協議をして、出していただく方向で、何が足りないんだというところをやりとりさせていただきました。

後で、古込さんのケースが終わった後に市役所の職員の方と話す機会があって、職員の方が、言っていた内容としては、このケースで通さなかったら、正直、どんなケースで通るんだというぐらいで思っていたと。

その市役所の担当の方は言われていました。

それぐらい古込さんも非常に努力されて、市役所の方にその思いが通ったということかなと思っています。

あと、本人の具体的な意思表明は、はっきりとなされていたという点も大きい点だったと思いますし、やはり体調の悪化でスケジュールがうまく消化できなくて、またやり直しということも何度かありましたけれど、最後は本人も覚悟を決めて、病院を出るということで、最後に、覚悟が決まった会議がありまして、それは、本当に今も僕がはっきりありますけれど、支援者と古込さんで、本当にこれまで関わってない人が見たら喧嘩でもしているんじゃないかというぐらいのやりとりをしながら、最後に覚悟を決めて、古込さんがこれは当たり前ですが最後に病院を出る際に、ご自身の要するに、健康面、そういった部分を100%病院と変わらないようにということで、ちょっと二の足を踏んでいた場面が最後にあったんですけれど。

そこを最後に、これじゃ駄目だということで、覚悟を決めて出ていったと。

それに、みんながついていったと。

そんな場面もありました。

その辺も今振り返ると、大きかったところかなと。

やっぱり最後は本人の気持ちなんだなという思いです。

スライドにありますが、出る際に、金沢市から重度訪問介護で、937. 5時間の支給量を得て地域生活に移行したということになります。

実際に移行した後に、私の手などをかりずに、手なんか借りず、古込さんは自分が必要必要な支給量を申請して1,000時間を超える支給量を得られるんじゃないかと記憶しています。

病院を出た後の生活ですが、病院を出た後一度、支援者の家を間借りして生活されていたこともあったんですが、それを、二、三ヶ月ぐらいいらっしゃった後、自分でアパートを移られることになりました。

スライドに示した間取りのアパートに本人とヘルパーさんと一緒に生活されていらっしゃいました。

写真は、間取りで言うと、和室、6畳の部屋ですが、ここに古込さんがいらっしゃって、ヘルパーの方が、ダイニングキッチンで、いろいろ準備されたり、洋室で休憩されたりしていらっしゃったと。

うちの事務所からも近くて何度か私も伺わせていただきました写真には、國府先生も映ってるかなと思います。

再出発、自立生活をスタートされて、日常の金銭管理や買い物等をご自身でいろいろな選択肢がある中、決めていくという、全くこれまでの入院生活にはなかった新しい生活を送られていました。

スライドの写真は近くのドラッグストアに行って、ヘルパーの人に商品を見せてもらって、それは要らないとか、それを一つ買ってくださいというやりとりをしながら買い物をしている様子になります。

あとは、先ほども紹介しました囲碁の大会にも実際に出られてという様子。

その写真を映しています。

ごめんなさい。

最初に申し上げればよかったんですが、ご家族ですね。

これは大事な話なので、古込さんのご家族はお父さんお母さんと弟さんが1人いらっしゃいました。

弟さんは、ほとんど没交渉で古込さんにはお父さん、お母さんが、ついていらっしゃったということになります。

残念ながら、古込さんの取り組みにはお父さんお母さんは消極的で、私も最初はいろいろ思うところはあったんですが、先ほどの、文集を見て、お父さんやお母さんも苦労されたようすがものすごく書かれています。

我々支援者として、本人の人生でわずかな接点しかないわけなので、そのわずかな時間だけでご両親に対して嘆いたり、マイナスな印象を持ったりするのは、おこがましいなと。

今となっては思っています。

我々としては、本人のニーズを聞きながら粛々とやっていくご家族を説得するというのがあればいいと思いますが、そんなにえらそうに無理してやるようなことでもないのかなと今は整理をしています。

これは、古込さんが公園で空を眺めている様子です。

古込さんといろいろやってきて、古込さんが最後に言われたのは、地元の最初にお示しした輪島に帰りたいということを言われていました輪島に帰るのに向けて車で2時間半ほどかかりますのでどういうふうにやるかというのをシミュレーションしたり、段取りしたりをやっていたんですが、体調を崩されて結局叶わないままになってしまったということです。

そのスライド右下にあります写真は、古込さんがいつも近くに置いておられた当時通われた学校の近くの様子かなと思いますが、そこが、私としても、最後に後悔というか、かなえてあげたかったなと思っています。

古込さんは平成31424日に、亡くなられてしまいました。

本当に粘り強さみたいなところは、いろんな人に伝わったかなと思います。

最後に、古込さんの思いというか、我々に投げかけられた課題ですが、すみません。

本当に、親も本人も、本当にボロボロでした。

やっぱり、この社会を何とか変えていかなければならないし、私の方で、できることは少ないですが、これからも目の前に困っている人の問題を解決する中で古込さんが投げ掛けられた問題の答えを探していきたいなと思っています。

すみませんちょっと、言葉にならない感じになってしまいまして申し訳ありません。

こんなつもりはなかったんですが、ちょっとすみません。

古込さんも、実際に、本当は出られれば良かったんですが、そこはできませんでした。

済みません、とりとめのない形に最後になってしまいました。

今日質問、質問を受けられず大変恐縮ですが、私からの報告は以上にさせていただきます。

ご清聴ありがとうございました。

 

 

 

司会/ありがとうございました。

それでは、ところ変わって北海道からのご報告です。

遠く離れた病院を退院して地元へ戻るため、ご本人、ご家族、自立生活センターが連携して地域生活を実現した事例です。

ご本人の岡田彩夢さん、お母さんの博美さんCILラピタの佐藤祐さん、菅野 亜紀子さん。

土畠 智幸さん。

名寄市健康福祉部の佐久間さんよりお話していただきます。

北海道の皆さんよろしくお願いします。

 

 

/よろしくお願いします。

CILラピタの佐藤です。

CILラピタでコーディネータをしています菅野といいます。

よろしくお願いします。

土畠先生も自己紹介をお願いいたします。

岡田彩夢さんのところにお集まりの皆さんもマイクをオンにして、あゆさん。

/北海道名寄市からプロジェクトの報告をさせてもらいます。

1枚目は、917日に岡田彩夢さんが退院しました。

それから、稲生会札幌から土畠先生とスタッフの皆さんの四日名寄に滞在していただき、ヘルパーの皆さんと岡田彩夢さんとご家族、お母様と一緒に写真を撮ったときのものです。

/地元の小学校中学校に通っていたんですけど。

高校生の時に、養護学校に同時に、八雲病院に入院して、/岡田あゆさんは名寄市に生まれ、現在19歳です。

気管切していて、人工呼吸器を使用しています。

経管栄養で、手は指が動くのでスイッチ入力などは可能です。

喉頭分離手術をしていますが、独自に声を出して、会話なども可能です。

中学生の弟さんがいますが、同じように気管切開で呼吸器を利用しています。

/旭川にCILがありまして名寄市は、日本の最北端、稚内との真ん中になります名寄市は人口が26万人、星が綺麗だったり、もち米が有名ですが、伊勢の赤福のお餅が名寄の餅だそうです。

高校進学のため道南の377キロ。

離れた八雲病院に、高校進学のために入院することになりました。

帰省も病院の規則に従って、六泊七日しかなかったみたいで夏休みも冬休みも、6日間ほどしか帰れなかったということですがその中でも、呼吸器のトラブルがあるとすぐにこれだけ離れた八雲の方に戻るようにと何度も指示をされたと聞いてます。

 

あのー喋っていいですか。

どうぞ。

/八雲に行くことになったきっかけは、やはり近くに養護学校がなかったのと、旭川の養護学校を希望してたんですが、呼吸器を使っているということで、受け入れが難しいということだったので。

八雲の方に本人も集団、学校生活を送るのであれば、八雲は呼吸器を使用している子もいるのでそちらの方が良いというお話から、本人もそちらの方に行きたいということで、行くことになったんですが、結局、向こうに行ってみたら話とは全く違って、車椅子で自走できない子はベッドで生活をする学校に通えずに集団で関わることがほぼほぼ少なくて、関われるのは参観日に私が行ったときのみ本人は病室の隣の教室に先生が来てくれて、そこで授業を受けるという生活を3年間していました。

やはりそこでは、私達が望んでいた学習内容というか、集団で学習するということができなかったのがとても残念でしたし、学校生活の中で修学旅行が一番本人は楽しみにしていたんですが、結局飛行機に乗ることが難しい、呼吸器加湿器の確保ができないと言われてしまって、修学旅行にも結局行けませんでした。

なので、これだけ400キロ近いところ離れた八雲に行ったにも関わらず、結局何のために行ったんだろうとか何のために病院にいるんだろうって疑問しか浮かばなくなってしまって。

逆に名寄に住んでいたときは、学校にも通えていて集団にも入れて、本人も外の活動がすごく好きなので、外にもどんどん出ていたんですが、結局八雲にいる間、親が行かない限りは、病室からさえも出られない、病院から出られないだけでなく病室からも出られないという現状があったので、やはりそこら辺がちょっと、もう少し考えていただいて、介助の方がついて、病院内の売店に行くだとかそういうこともできたらよかったなっていうふうに思います。

結局、自分で何もできないのであれば、ベッドにしかいられないという現状がちょっと私には理解できなかったです。

今後はこちらに戻ってきて、その日、彩夢がしたいことをできるような生活が本当に普通でいいので、普通ということが一番素晴らしいなというのを今回帰ってきて親子共々痛感しているところです。

ありがとうございました。

 

/ありがとうございます。

今回のプロジェクトで三つのキーワード。

/地元へ、名寄へ帰ろうの三つのキーワードで、一つは、CIL自立生活センターへ名寄市の福祉課の方から相談と依頼があったということも一つになります。

もう一つは、そうですね。

本人とつながることもそうですが、本人から発信をしてという形ではなくて、退院の意向を地域医療連携室に伝えるという形で、いろんなことに制限がある中で、コロナ禍である今だからこそ、退院をということで、外からの動きで働きかけたというのが特徴になります。

三つ目は札幌のような、北海道では、札幌が大都市になるんですけれども、札幌のような都市部ではない地方に退院できるように先に社会資源、在宅医療の連携であったり、自立生活の社会資源を作ろうとか、キーワードとして三つ挙げました。

/昨年の12月に初めて全体のZoomミーティングを行いました。

Zoomミーティングは退院までの10ヶ月の間に何回も重ねたんですけれども、その中に四つの課題項目を立てました。

一つは、介護保障についてですね、それについては、岡田あゆさんが退院する前で、774時間、24時間見込みで出していただけるということで12月の段階でわかりました。

二つ目は、医療連携です。

地元の名寄市市立総合病院と、札幌の稲生会北海道事業のYeLL三つ目は、自立生活センターラピタと、全国のネットワークで求人をCILと連携して開始しました。

四つ目は、住宅になります。

名寄の地元で、住宅改修のしやすいところで中古の1軒家を見つけまして、中継に繋げました岡田彩夢さんの家には1軒屋で自立生活を開始してます。

/それでは、名寄市の行政の方から、佐久間さんお願いします。

 

佐久間/名寄市の佐久間です。

今日はよろしくお願いいたします。

先ほど名寄市の紹介の地図を出していただきましたが、ありがとうございます、名寄市は北海道の北中核都市となっています。

さっきご紹介いただきましたが、もち米作付日本一だったり、夏はアスパラ、冬は雪質日本一というスキー場があったり、農業を基幹産業としている都市です。

道北の中心都市ですので近隣の小さな町の福祉サービス、サービスの提供のカバーなどもしている状況です。

それでは実際、今回、彩夢さんの地元に戻る取り組みについてお話したいと思います。

彩夢さんの高等養護学校在学中にお母さんの方から、卒業後に地元に戻るにどうしたらいいか相談をいただきました。

その時点ではまだ具体的な事件は決まっていなかったので、市の基幹センターとしては実際にあゆさんが名寄に戻って生活するにはどんなことが必要か名寄市として検討しようということになりました。

実際には、市が設置している障害者自立支援協議会の中で何度か事例を紹介させていただいて、委員の皆さんから意見をいただいて考えたりしていました。

その後改めて、去年令和2年の11月にお母さんの方から地元に戻したいという話をいただきました。

必要な支援として、重度訪問介護を考えました。

その時点で名寄としては、重度訪問介護の利用されている方がいらっしゃらなくて、24時間の支援を受けたことがない。

状況でした。

居宅介護の事業所も医療的なケアができるヘルパーさんがいないとか、いろんな課題が出てきましたので、実際のノウハウも含めて担当と以前から繋がりのある方に相談させていただきました。

具体的に彩夢さんの退院後のイメージを作って段取りを進めてきています。

実際に退院までの間名寄市として行った支援として、まず、退院に向けてお母さんからどんなふうに生活をしていくか、意向の聞き取りを行っています。

福祉サービスの利用ということで、重度訪問介護ですけどラピタの皆さんと一緒に動いています。

医療機関とも連携しては、ある程度退院後のイメージが出来上がって、支援環境が整った今年の2月に基幹相談支援センターから地域医療連携室に退院したいと伝え、退院まで情報共有とか調整を行っています。

退院後支援をいただく地元の名寄市立総合病院と、情報共有や調整などもしています。

そのほか地元に戻ると、決まった段階で支給決定に向けてセルフプランの作成支援も行ってきました。

都度ラピタさんの方と情報共有しながら、助言や専門医の紹介などを受けています。

名寄として考えてきたこととしては、まず、ご本人、家族の方の地元に戻りたいという思いに寄り添えるような、実現するための支援を行っています。

名寄市の規模では最初から全て整っていたわけではないので、今回の機会に何が必要なのか。

いろんな方から意見を聞いて検討してきています。

福祉医療に関しては呼吸器を24時間使用というところがあるので、基本的に支給量は最大で見ていく方向で考えていました。

名寄市としては、前例がなかったということで、ご本人の安心安全、それから支援に入られるヘルパーさんの安心安全のためにも、退院後3ヶ月という限定ではありますが、2人で介護できるような支給を認めています。

11月末で退院後の3ヶ月の経過がありますので改めてあゆさんやラピタの皆さんと協議しながら支給量については調整していきたいと考えています。

もともとあゆさんは先ほどの話にもありましたが、中学校卒業まで名寄市の普通校で生活をしていました。

看護師を配置するという取り組みも行ってきています。

地元に戻りたいというご本人、それから家族の希望をかなえるに当たって支援を提供していただいている関係機関は皆本人のことを知っています。

それこそ受け入れが地元に戻る受け入れがスムーズだった一因と考えています。

退院された日、呼吸器を調整し自宅に戻った日のあゆさんの様子が、小さい頃から知っている支援を受けていた顔なじみの訪問看護師さんに囲まれて、安心して笑顔でいらっしゃるのは、取り組みの全てかなと思いました。

最後になりますが、名寄市として考えていることとしては、本人が長く安心して地域で暮らせるような体制を維持できるような、支給量も含めて必要な支援をしていきたいと思っています。

また、あゆさんだけでなく今後も名寄で生活したいという方がいれば、今回のことを参考に地域生活を支援していきたいと考えています。

また一方で、継続課題ですけれども、今後のあゆさんの日中活動の場とか、支援のあり方については、まだ実際名寄市内としては、支援が足りていない状況なので、本人やご家族の意向を伺って、関係機関として協議したいと思います、名寄市からの報告は以上です。

 

/ありがとうございます。

 

続いて、医療連携について医療法人/医療連携からお話をいたします。

私、受信は札幌市で、主に人工呼吸器を必要とするお子さん、それから障害者の方に対しての訪問診療を行うことを、2006年から行っておりました。

その後、2013年に医療法人稲生会というものを設立して今現在は札幌および周辺の市町村で訪問診療、訪問看護、居宅介護、それから未就学のお子さんたちが通える場所としての短期入所、相談支援という事業を行っています。

札幌圏での在宅医療の実践に加えて、2014年度から法人の独自事業種まきプロジェクトという名前を当初はつけてたんですが、北海道全体でどこにいても、人工呼吸器鼻マスク式人工呼吸器の場合もあれば気管切開の場合もあるわけですけれども、どこの地域でも人工呼吸器を使いながら安心して生活できる仕組みをつくるということで活動を始めました。

その翌年2015年度からは、北海道の小児など在宅医療連携拠点事業、ロゴマークがありますが、私達医療法人稲生会が北海道の公的事業という形でこの活動継続しています。

小児など、とついているのは、などは神経難病など成人の当事者の方もと対象としていること、医療の事業ではあるんですけれどもそのほかの保健・福祉・教育・保育といった医療的ケア児支援と呼ばれるものですね。

ということについてもこの活動を行ってよいということでしたので、そういった活動をしてきたということです2015年度から17年度は北海道全域に小児など在宅医療のシステムを広げるということで、基盤作りをして、それから北海道はこの真ん中の図にありますけれども、三次医療圏が6つあるという広大な面積になっているわけですがそれぞれ3次医療圏ごとに拠点となるような医療福祉等のチームを作るということを後方支援をしてまいりました、名寄がある道北については旭川に旭川医大とか、旭川厚生病院、重症心身障害者施設である北海道療育園がありますがそういったところが中心となって拠点チームを作ってくれています。

その中で名寄にも実は一度伺ったことがあって、彩夢さんの弟さんがですね、呼吸器を使いながら地元の小学校に通っていることでそちらの方に見学をさせていただいて、私達の活動の方でその取り組みを紹介させていただき、名寄モデルと私が勝手に読んでいたんですが、そういったことを北海道の他の地域に広げるということをしていました。

今回彩夢さんに関わる前に向かって右上になりますが、2019年度から2020年度にかけて、この後お話されますけれども、吉成亜実さん、八雲病院から札幌の方に地域移行された方のお手伝いをさせていただきました。

亜美ちゃんの場合は札幌に転居するということでしたので、現在は私達のクリニックの方で訪問診療を行っています。

今回、あゆさんに関しましては、ちょうど1年前ほどになりますが、202012月に名寄の支援者の方からこういう方がいるから関わってもらえないかということで連絡をいただいて、当初はZoomミーティングを繰り返して関係者の方々とお会いして、お話をしていたところです。

20211月には地域移行後の主治医になる予定、彩夢さんがもともと名寄にいたときに見てくれた小児科の先生ですが、そちらの先生の方にメールをさせていただきまして、そこに旭川医大の小児神経の先生も月1回外来に行ってたということですが、そちらの先生とはもともと他の患者さんとの件で連携とってますので、そういった形で私も関わらせてくださいということでお話をしています。

その後、名寄の先生の方から呼吸状態に関して、八雲病院というか、北海道医療センターですね。

入院中にはかなり痰の吸引が必要だということがあったので、何とか気管カニューレを変更するとか人工呼吸器を変更するとか、たんの吸引が頻繁じゃないようにしたいと先生からもお母さんからもいただきましたので、そちらを転院してから一緒に診療させていただいて調整するという。

手はずをすることになりました。

その他

ヘルパーさんの研修ですね喀痰吸引研修についても札幌の私達のクリニックでもともと普段から開催をしておりましたのでちょっと半日ほど。

札幌に来ていただくような形にはなりましたがそちらの方で研修を受けていただいて、それ以外の講義のところは、遠隔で行っても良いということだったので、そういう形で対応しています。

実際20219月に転院となったわけですが、その転院のときにですね、4日間ほど私が名寄まで伺って、名寄の病院の方に実際に訪問をして、人工呼吸器の設定だとか気管カニューレの変更を行って幸いというか、あの喀痰の吸引の頻度がかなり1日ほとんどしなくてもいいような状況になりましたので、そういった形で退院を迎えられたということです。

それから介護職員の方々への医療的ケアの指導も担当させていただいて、その後はヘルパーさんたちから時々体調の相談とかですね、基本的には地域の先生が見てくださっているんですけれども、ちょっと専門的な呼吸器のことだとかそういうことについて私の方で相談を受けているといったような関わりです。

私の方からは以上です。

 

/ありがとうございます。

移転して、地域医療連携室があることで、/昨年夏に、北海道の南にありました八雲病院が札幌の北海道医療センターという大きな病院の中の一部に機能移転という形で引越しをしましてもともとあった北海道医療センターの病院に地域医療連携室があるので、そことわたしたちで協力体制を主治医や病院の方との連携が可能になったというのもあります。

コロナ禍の中でも、この地域医療連携室の役割で、旧八雲病院の病棟と連携をとることが可能になりました。

/医療連携ミーティングということで、この方々にお集まりいただいて行いました。

/医療連携ではありますが、名寄市役所の福祉課の方や、CILそして、札幌の稲生会のスタッフの方たち。

地元の名寄市立総合病院の主治医の方も一緒にオンラインで初めてZoomミーティングを行いました。

823日に、お母さんと彩夢さんに面会に行きました。

/そのときの病院内の様子はやはりサクションなども頻回にしている様子や、そこで名寄市に相談して、退院後は2人体制が必要ではないかということで、月1,488時間を退院後に併せて支給決定が下りたということになります。

退院1週間前でした。

/先月。

退院です。

/退院のときには病院の病棟の方に見送られてありがとうございましたと出発しましたが、すぐそこにある、びっくりドンキーによって、10分後には病院の中では、いろいろな制限があって炭酸も飲めなかったり、好きなおやつも食べられなかったり、口で食べるということ自体が禁止されていたり制限があった中で、病院を出たら、壁1枚の敷地を一歩出たら、ソーダを飲んだり、チーズバーグを食べたりということができるということを目の前で思いました。

/ここで様子を見ていただきます。

これからということで、岡田彩夢さんと岡田博美さんから一言メッセージをいただきます。

 

/今まで3年半、4年近くできなかったことを、これからは、生まれた名寄で、いろいろなことを経験して、楽しんでいけたらと思っています。

ありがとうございます。

ありがとうございました。

以上です。

 

 

 

司会/皆さん、どうもありがとうございました。

あゆさんもありがとうございました。

そうしましたら、ここからは、これまでの皆さんからいただいた事例報告を踏まえながら、それぞれ立場の異なるコメンテーターの皆さんとディスカッションをしたいと思います。

コメンテーターをご紹介いたします。

昨年6月に病院を退院して、自立生活を送っていらっしゃる吉成亜実さん。

「こんな夜更けにバナナかよ」他、障害と福祉の分野に造詣の深いノンフィクションライターの渡辺一史さん。

先ほどの「地元へ帰ろう!プロジェクト」のご報告でもご登壇いただいた土畠さん、以上のお三方です。

ディスカッションの司会は介護保障ネットの國府朋江弁護士が務めます。

では國府さん、よろしくお願いします。

 

 

 

國府/よろしくお願いします。

まず私から自己紹介です。

私は介護保障にネットの事務局をしていて、福岡で弁護士をしております國府朋江と申します。

筋ジスプロジェクトのきっかけになったご報告のあった古込さんの件で、当会のスタッフとして関わっていたことだとか、古込さんの家で開かれた新年会に参加していたというご縁で、今回コーディネータをさせていただくことになりました。

どうぞよろしくお願いいたします。

では早速始めていきたいんですけれども。

最初は、吉成さんの方からお話いただきたいんですけれども吉成さんのプロフィールや退院までの歩みということを含めて、説明をお願いします。

 

吉成/スライドお願いします。

ありがとうございます。

私は、先ほどご紹介に預かった吉成亜美と申します。

私は北海道の札幌市出身で、脊髄性筋萎縮症という全身の筋肉が徐々に衰えていく難病を患っています。

日常的に全てに介助が必要介助は必要です。

現在は夜間の人工呼吸器を使用しています。

ヘルパー制度を利用して札幌市で、いますが、先ほどおっしゃったように、以前は筋ジス病棟に長期入院をしていました。

入院生活から地域生活へ移行した簡単な経緯をお伝えします。

次のスライドお願いします。

ありがとうございます。

私の地域移行までの経緯としては、私は中学校1年生の頃から筋ジス病棟に入院したのですが、入院中2度ほど、退院を希望しましたが病院側の反対があり、断念するという状況にありました。

その中で、2019年の春に、友人から、先ほども登壇いただいたJ CILの岡山さんを紹介いただき、情報共有や、経緯などを共有しました。

その後たくさんの支援者との出会いがあり、再度、退院の希望を持ち始めました。

その中で、支援者の協力のもと、2度ほど、実体験などを経て、昨年の6月に約15年の入院生活を終え、退院をしたという経緯になります。

2度の断念とありますが、その中では、退院を反対する院内スタッフから、心無い発言を受けることもありました。

そういった経緯もあって、病院の中で、地域移行について相談できる相手がいないという状況にありました。

簡単な経緯は以上になります。

 

/吉成さんありがとうございます。

ちなみに、たとえば差し支えがなければ、退院に反対するスタッフから受けた心無い発言というのがどんなものだったかということだとか。

吉成さんの退院に当たって、障害になったものは何か、逆にどういう環境が整ったから乗り越えられて退院できたということについてお話いただけますか。

 

吉成/心無い言葉というのは、障害者というのは、なんていうんでしょう。

今まで税金を払って働いていた高齢者の方でも現在の社会の状況ではなかなか制度が整っていない中で、一人暮らしをするというのは、状態が悪くなってしまえば難しい状況にあるという中で、こういう重度の障害で、税金も払っていない障害の方がそういった暮らしをしたいというのはわがままだと思うと、言われてしまったという経緯があったりしました。

そのことがとてもショックを受けてしまったということもあったんですけど。

支援者との関わりの中で、ここまでこられた状況です。

先ほどおっしゃってた障害というものですが一番の障害は、筋ジス病棟の病院の閉鎖性であったと考えています。

病院の中と外というのは全く違う世界という感覚がありました。

日頃から関わりを持つ共に活動。

いや、話ができる外部の人というのはほとんどいない状況でした。

そのため、外部の人と繋がったり、外部の人からの支援を受けづらい状況だったのではないかと思います。

また、病院という環境の影響か、医療が最優先の生活で、病院の外で生きることはできないという強い意識がありました。

地域に出るということは、命と人生を天秤にかけるような選択のように感じていました。

私の場合は、数少ない院内の友人や理解者が地域移行への道をつないでくれたから乗り越えられたと思っています。

また、訪問医療の体制、先ほど紹介があったような体制が確立していたことも地域に出られた要因ではないかと思っています。

 

國府/今、地域に出ることは生命と人生を天秤にかける選択とおっしゃっていましたが、実際に退院してみたら、どうでしたか。

 

吉成/実際はそんなことはなかったというのが、1年以上経って安定した生活を送れているのがあります。

ただやはりそれはやってみたからこそ思えるだけで、当時の病院にいた頃の私は本当にギリギリまでその葛藤があったかなと感じています。

 

國府/話は変わりますが、先ほどご紹介のあった名寄の事例と、あと、吉成さんの事例では、どんなことが違うと感じられましたか。

 

吉成/私の場合は先ほども伝えたように、病院の中で、地域移行について相談できるという状況ではありませんでした。

そのため、外部の支援者と私のみで、地域に出るための準備を進めて、すべての準備を整えてから病院に退院するという意思を伝えるという状況流れでした。

岡田さんの場合は、病院の地域連携室をはじめ、CILの方や名寄城市役所など支援者が集まって、Zoomなどで打ち合わせや話し合いの場が設けられていたとのことですので、そこが私との大きな違いだったのではないかと思います。

私の方法は、あまりにもリスキーで、私にかかる心理的な負担や身体的な負担はとても大きいものでした。

また、支援者も同様の負担があったと思います。

 

國府/吉成さんありがとうございました。

では、引き続いて、土畠さんの方にお聞きしていきたいのですが。

ちなみに、お聞きしたいのが、全国各地の地域の病院で在宅医療が必要な方への医療の提供というのは、十分に可能なものなんでしょうか。

 

土畠/何をもってして在宅医療というふうに定義するかによりますが、人工呼吸器を使いながら生活をするという意味ではどこの地域でも、医療的には可能だとは思うんですけれども訪問診療を受けられるかどうかというのは地域によると。

名寄も実際に訪問診療を受けているわけではないので、病院の外来に毎月通っているという形になります。

北海道内でも人工呼吸器を使っているお子さん、あるいは若年障害者の方々に対して訪問診療を提供できる地域はまだ限られていると思います。

それから、人工呼吸器の管理ですね、何かあったときの対応だとか、長期的にこの設定でいいのかどうかというところまで含めてやれるというふうになると、かなりまた数が少なくなってくるかなと。

そして今回の名寄のケースは、例えば、介護職の方々への研修の介護の職員の方々に対して例えば気管カニューレが抜けたらどうするかとか、それを訪問看護ステーションのスタッフの方もそうですが、そういう方々への後方支援というか、指導や助言まで含めて行うというふうになるとさらにまた数が限られてくるのかなと思いますので、それは地域の状況に合わせて、どんな医療が提供が可能か、それに関わってくれる先生がいるかどうかを探すのがポイントになるかと思います。

國府/金沢の先ほどお話が出た古込さんは結局入院していた病院の近くで在宅生活を始められて、入院していた病院に通院するなどして医療の提供を受けておられたんですが、在宅で医療を受けることと、これまで入院していた病院が医療を提供するということと、何か違いがあるというか、医療を提供する側として大変なこととかあるんですか。

土畠/もともと見ていた病院にかかる方が、医療情報の共有とか、ハードルが出てきませんのでその方が楽だと思いますが、もともと見ていた病院が訪問診療できるかどうかは別ですし、そもそも障害者権利条約にも書かれていますが、何かの理由で、どこに居住するかということを限定されてしまうことは望ましいことではないと思います。

亜美ちゃんの場合は札幌出身だったということがありましたが、彩夢ちゃんの場合は、地元の名寄に戻りたいということだったので、医療資源が多いから札幌に住んだ方がいいとかいうことは基本的には望ましくないと思っています。

医療側がこちらがあちらがいいとは言うのはあくまで医療者の目線なのでご本人がどこで誰と暮らしたいかということをだと思います。

その選択があって私達医療者がそこの地域でどういうふうに医療体制を組めばいいかというのを考えるというのが本来の順番かなと思います。

 

國府/名寄の事例は、土畠さんのおられるYeLLが、コーディネートをされたりしたと思うんですが。

役割を果たせる団体があって、医療提供機関があれば、医療が必要な障害のある方も十分自分の好きな場所で過ごすこと暮らすことができると考えていいんですか。

 

土畠/県によると思います北海道は、私達がたまたまそういうことをしていますが、県によってはそういうところがないということもあります。

そこに、診療報酬の請求ができるものがないですので、私達も今回北海道の事業ということでそちらから事業費が出てやっていますが、そうでなければボランティアになるので、なかなかその辺は難しいかなと思っています。

それから、神経難病の当事者の方について難しいのは、年齢と病態によって、どこの診療科が見るかは非常に難しい。

私達小児科医は一般にトランジションと呼んでいて、小児からそのまま疾患や障害を抱えて大人になる、そこを誰が支援するかというのを、移行期支援と呼んだりしますが、診療科、小児科が見るか神経内科が診る科内科が診るか、呼吸器内科が診るのか、訪問診療医が診るのか、その辺が非常にハザマに入りやすいということは、一つ真剣難病の方については言えるかと私は思っています。

 

國府/ありがとうございました。

では、次に渡辺さんにお話を聞いていきたいんですが、まず、自己紹介と、北海道の筋ジス病棟の状況とか、あと、これまでの自立生活の運動というか、そういう北海道の自立生活の状況について教えていただけますか。

 

渡辺/今回テーマになっている岡田さんも吉成さんも私は支援に関わらせていただいたんですが、資料を出しますね。

見えますか。

もともと、「こんな夜更けにバナナかよ」という本を書くため2000年に取材を、鹿野さんの取材を始めたのがきっかけで今2021年なので、既に21年、北海道の障害当事者の方たちと濃密なお付き合いをさせていただいています。

それで、今回の吉成さんと特に岡田さん、彩夢ちゃんの自立生活から名寄市という、札幌市大都市ではない名寄市で実現したと。

そういう流れはどういう流れの上で歴史的な流れの上で起こったかというのを、ぜひ押さえておいていただきたいと思います。

今回参加の方に、メディアの方も多いと思いますので、北海道の状況は、実は全国の状況のちょうど縮図になっていまして、北海道の状況を知っておくことは全国的な状況を見る上で非常に大切だと思います。

時間がないので簡単にいきますが、まず、三つの発展段階があります。

一番最初、1977年に北海道で札幌いちご会という全国的にも有名な強力な障害当事者の団体ができました。

この団体が障害者運動をゼロから切り開いていったということです。

全国的な状況で見ると青い芝の会とか府中療育センター闘争のようなものが、1970年に起こって、それに地方としては、最も早い時期に北海道でも、そういう運動が起こったということです。

この時期は、とにかくどんなに障害が重くても、施設や病院じゃなく地域で生活したいという思いを実現できる運動をしていたということです。

代表は小山内美智子さんという非常に有名でかついろんな著作を、この方は天才だと僕は会うたびに、あなたは天才だというぐらい、非常に表現力豊かで、障害者の問題を健常者にも真っすぐに届かせる力強い言語表現の方で、特に女性の障害のある女性の性の問題を、80年代から鮮烈に打ち出した活動をしました。

一度、「こんな夜更けにバナナかよ」の中でも書いたんですがいちご会の運動振り返ることはとても大切だと思うのは、先ほどの青い芝の会や府中療育センター闘争は、告発が他の闘争にならざるを得ませんでしたそれは状況的にもそれが当然のことだったんですが、いちご会はそうではなく、告発糾弾をするだけじゃなく、行政や政治のレベルに共感してくれる同志を作って、例えば、当時の状況は、横路孝弘さんという後に衆議院議長を務めた、社会党、民主党、民進党の衆議院議員になりましたが、その方が北海道知事の時代、横路さんとちゃんと繋がったり浅野史郎さんという、当時厚生省の官僚から、たまたま道庁の福祉課長に出向で来ていた佐野史郎さんと繋がってメディアも巻き込んだり、黒柳徹子さん、糸井重里さん、坂本九さんは若い方はご存知ないと思いますが大変有名な方でそういういろんな方を巻き込んで共感型の運動を展開したという点で非常にいちご会は優れた、後に、ヒューマンケア協会の中西さんの運動はそういう形の運動だったと思いますが、それを1970年代から展開していました。

転換点の2番目は、自立生活センターさっぽろというのができます。

佐藤きみよさんという方が中心で、この方はいちご会の運動をどういうふうに広げたかというときみよさんは人工呼吸器をつけていました。

人工呼吸器をつけて日本で初めて自立生活を1990年に開始します。

なので、きみよさんが出たことで、それまでどちらかと言うと青い芝の会そうですが脳性まひの方たち中心だった障害者の運動が、難病系、人工呼吸器をつけている人たちにまで広がる大きなきっかけを作ったということです。

きみよさんは実は今年の7月にお亡くなりになったんですが私は、いろんなところに追悼文を書きました。

1990年、きみよさんが自立生活を開始した時代はどういう時代だったかというと、要するに在宅人工呼吸の医療保険適用が認められた初年度です。

それまでは認められていませんでした。

だから人工呼吸器をつけていたら病院から出られない時代です。

レンタル制度ができたのが、4年後のことです、きみよさんは人工呼吸器を数百万円かけて買うとか買わないとかそういう問題もあった時代に、意を決して出たきみよさんのおかげで、後に鹿野さん、ばななの主人公の鹿野さん、95年に人工呼吸器をつけていましたが、きみよさんに続いてました。

全国的な状況を見ても、平本歩さんもきみよさんと同じ1990年に在宅人工呼吸器をつけて在宅生活を開始します。

ALSで有名な橋本みさおさんも93年です。

90年代初頭は、それまで脳性まひの方や脊髄損傷とか、頚椎損傷とかそういう方が中心になった自立生活が人工呼吸器をつけた方に広がったということです。

語りきれないので充実した資料を作ったのでぜひご覧いただきたいと思います。

第三の三つ目。

いちご会佐藤きみよさんの自立生活センターさっぽろに次いで、今度どういう転換点があったかというと、札幌市以外のさっき岡田さんは名寄市でしたが、要するに、僻地あるいは離島で、124時間の介護保障を獲得するという状況が初めて生まれたのが北見市です。

それで渡部哲也さんというALSのこのかたですが、この方が、地方都市では初めて、全国的に見てもこれは初めてだと思います124時間の介護保障を実現するにあたって、シンポジウムにも関わっている全国障害者介護保障協議会とか推進協会、広域協会などの粘りづよいサポートがあったにせよ、地方の都市で初めて24時間の介護保障を勝ち取るという流れができてきたということです。

それが北海道で言うと、帯広に広がり、恵庭市に広がり、全国的な状況で言っても、これは名寄市で、今年実現した。

全国的な状況で言っても、こういうふうにずらずらと、県庁所在地ではない都市に124時間の介護保障が広がるきっかけが北海道の北見市からだったんです。

これは資料を見ていただきたいんですが、離島です。

壱岐市、長崎県壱岐市ですが、離島でできるはずがないという事例が、結局、叶うようになった。

この3段階を経て、今、最初は小山内さんの時代はとにかく施設を出て地域で生活したい、この思いでこれを展開していたのが、佐藤きみよさんが人工呼吸器をつけていてもしたい、自立生活したいと、今は札幌市とか大都市だけじゃなく自分の生まれ育った街で自立生活ができる社会へというふうに、今は、私がこれは作ったキャッチフレーズですが、こういう感じで自立生活が広がっていっているということです。

長くなりましたが、とりあえずは、共有を停止したいと思います。

停止されましたか。

/まだされてないです。

 

國府/渡辺さんありがとうございました。

自立生活の広がりというのが、地域的にも広がっていってるのがよくわかりました。

ただ、やっぱり、全国でそういうふうに地域で自分の住みたい場所でそして地元、大都市じゃなく、地元でと暮らせている方は、そんなに多くはないのかなということもあるので、次に、名寄のような事例を偶然いろんな団体支援が繋がったという一過性のものではなくて、これから継続的に広めていくために私達がどうすればいいのかということについて考えていきたいと思います。

まず、土畠先生にお聞きしたいんですが、先ほど、少し、土畠先生の活動などには、普通は診療報酬が発生しなくて、ボランティアでできない今北海道の制度を使っておられるということですが、そういうYeLLのほか、同じような活動している団体があるのかということと、もし、ご存知かどうかわからないですが他の地域でもそういう制度があったりするのかということ、あとはどうやってどういう制度があれば、そういう活動が広がっていくのかについて教えていただきたいと思います。

土畠/まず、そういう先生がいるのかということですが、私はたまたま小児在宅医療というところから、成人の方も含めて、見て小児もいずれ大人になるので、私の患者さんで、いずれ大人になったらいなくなるというのはしたくないということがあって、神経難病の当事者の方にも関わらせていただき、一番上だと70歳近いALSの方もいらっしゃるんですが、訪問診療しているところです。

小児在宅医療でそういう事業をやっているところ全国にもいくつかあります。

ただ、私が行っているような診療支援まで含めてやれているところは非常に数が限られるかもしれません。

一つは、青森県にそういうところがありますし、三重県にもコンサルティングチームみたいな僻地であっても、そういうところで在宅生活をしたいのでアドバイスをしてほしいということに対応するものがあります。

その他は、難病では、難病医療相談、あるいは難病コーディネーターさん多くは看護婦さんがおっやっておられますが、そういうところは難病の拠点病院と繋がっていますので、コーディネイターその看護師さんが地方まで行って、指導助言をする、それを北海道にもあるので、その枠組みで関わるということも可能だったかと思いますが、人工呼吸器の設定を実際に行うのはちょっとハードルが高いかもしれません。

全国でそういうことを広げていくためにどういう仕組みがあるかというと、私が関わっている小児科領域ですと、2021611日に医療的ケア児支援法が成立して、そちらで県ごとに医療的ケア児支援センターをつくるということが盛り込まれています。

その中には医療的ケア児というお子さんが対象ではあるんですが、お子さんが大人になっていくところも含めて支援を考えるということが盛り込まれているので、そちらの方で、センターの業務の位置づけとして、神経難病の方も小児など在宅医療ということでやってもらうというのが一つ。

もう一つは難病の枠組みということになるかと思います。

以上です。

 

國府/ありがとうございます。

次に渡辺さんにお聞きしたいんですが。

全国の事例も北海道もですが、見ておられて、今回北海道の名寄の岡田さんの事例を普遍的なものにしていくためには何をしていくべきと思われますか。

渡辺/そうですね。

ですから、名寄の場合、特徴的なのは、札幌のような大都市ではない僻地で、自立生活をする上で、おそらく必須になると思うんですが、重度訪問介護に対応できる事業所がまずない。

それから、土畠先生のような訪問診療をしてくれる拠点もない。

そんな中で、今回、医療に関しては土畠先生がフォローしてくださいましたが介護事業所に関しては、ゼロから作るという試みをしないといけないわけです。

だから自立生活センターが地域の界隈にあるかないかは大きなわかれ目になりますし、先ほど言った壱岐市、長崎県壱岐島でも介護事業所を広域協会が自前でさくら会という、川口さんがやっている団体と協力してゼロから作ることをやっています。

ところが、そうやって作ると、地域の各地で資源になるわけです。

福祉資源になります。

それで、壱岐島の方も、徳光さんていう方かな。

その方もお亡くなりになってしまったんですが、彼のために作った事業所がその後の壱岐島の重要な福祉資源になっていますし、名寄市でラピタが立ち上げた介護事業の拠点に関しても、これから名寄市の重要な福祉資源になるということですので、それも含めて地域の方々がその重要性をちゃんと認識してくださることが重要だと思います。

だから最初にパイオニアとして切り開く人は大変だと思います支援する方も大変で、僕もその一端を担っていましたが、大変な重圧の中でやるわけです。

ただそれは、後の時代に繋がるんだということを意識しながらやっていくと、行政にも話は通じやすいだろうし、いろんな共感を得ることができるんじゃないかと思います。

答えになっていたかどうかわかりませんが。

 

國府/ありがとうございます。

では、吉成さんにお聞きしたいんですが、当事者からの目線としてですね、今回の岡田さんのような事例が増えるには、誰がどういうことをしていくべきかとか、当事者としてこういう制度が欲しいなとか、そういうことがあるかとか、あとは病院に長期入院しておられるような方が退院したいといった発信できるようにするために、私達は、どういうことをしていくべきかということをお話いただけますか。

 

吉成/まずは、どう関わるか変わるべきかというところで言うとあ筋ジス病棟という者がより開かれたものになるべきだと思っています。

様々な外部の人と出会って、関わりを持てるようになることが大事だと感じています。

そうすることで本人の様々な可能性というものが生まれていくと思います。

また、周囲の支援者だったり関わる方々が、諦めないということも大切だと思います。

一見難しいと思えるような、本人の希望だとしても、諦めさせるのではなくてどうすればできるのかを考えるっていうことだったり、失敗してもいいから小さなことから始められるような支援が必要ではないかと感じています。

そういった挑戦ができるようになるには、制度や体制で最低限の安全な生活が保障されていなければならないと感じて居ます。

例えば、病院のケアの体制もゆとりのあるものであるとか、地域でも、必要な分だけ介助者にいてもらえる、重度訪問介護の受給証が支給してもらえることだったり、所得の保障ということもうされていることです。

地域で暮らせるというのは、正直、いまだにインフォーマルな支援に頼らざるを得ない場面も多いと感じています。

誰にでも不自由なく普通に暮らせる状況とはまだ正直言いがたい状況です。

なので、院内の体制だったり支給時間だったり、現状ある制度や仕組みというものをまずは十全なものにするべきだと感じています。

長期入院中の方に、退院したいと発信できるようにするためにどうなっていけばいいのかというと、地域に出ても安心して暮らせる環境を整えることだったり、制度や人々の意識の変容というものも必要かも知れないと感じています。

私はみんなが地域に出ればいいとは正直思っていません。

出たい人はそのために一歩を踏み出すことができてまたそうでない人も、病院の中だったり、施設の中で少しでも自分の希望する生活が送れるようになればいいと思っています。

ただ、現状はそれを叶えることすらなかなか難しいという状況です。

ですので皆さんにはどうか本人の希望であったり、やりたいことを諦めずに済むように今後も関わっていってほしいと思ってます。

以上です。

 

國府/吉成さんありがとうございました。

これまで介護保障ネットでは弁護士が障害のある人が地域で生活していくために必要な公的介護を確保するためのお手伝いとして行政に対する申請の代理というのをしてきたんですね。

その結果、全国各地で重度の障害のある人が1日、必要な人は24時間ヘルパーを利用して地域生活を送るっていうことができてきているというふうに活動してきています。

ただ、今回の報告にあった名寄の岡田さんのようなケースを見るとですね、弁護士が介入しなくても、本人が地域で生活を望んで地域の行政が支援をして必要なヘルパー時間数を確保して、さらにノウハウを使って、渡辺さんから紹介のあったようなノウハウを使ってヘルパーを確保して、さらに医療的な支援体制というのができて、地域生活を実現されていると、そういうふうな現状を見るとですね、当会の活動の究極的な目的というのは弁護士の代理人にして頑張って権利主張をしてそういうことをしなくても、誰もが当たり前に自分の望む場所で必要な支援を受けながら生活できるようにしたいということなので、名寄の事案というのはその方向性を見せてくれたなとも思いますし、このパネルディスカッションで、これから私達がどういうふうに活動をしていくかと考えるきっかけになったのではないかと思いました。

それでは、

 

渡辺/一ついいですか。

名寄の事例が円満に行ったっていうのはある種、偶然的要素もかなり大きかったんですね。

というのは、ずっと八雲病院から八雲病院の院長だった石川さんという方が北海道医療センターに来て、ちょうど退職したということがかなり大きかったんです。

もしそれがなければ、やはり弁護士さんなりなんなりの力を借りなければならない可能性もありました。

だから、その偶然もあったので、必ずしも名寄が円満にいったということが何かモデルになりうるかというと、僕はそれは全てじゃないと思いました。

だからそこの物語も実はたっぷりあって、その辺はいろんな個人情報とかいろんな問題も絡むので言いづらいんですが、実はそういう物語がたっぷりあるということが、ねこのシンポジウムでそういう物語は全く触れていませんが、そういう物語をちゃんと掘り起こしていくことが本当に自立が実現したのかっていうのを考える上で非常に大切だと思います。

だから、メディアの方々はそういう部分の物語を掘り起こして伝えていただければなと思います。

 

國府/渡辺さんありがとうございました。

名寄の事案は結構偶発的な事象もいろいろあったようなんですが、誰もが当たり前に地域で望むときには暮らせるというふうになる、そのために私達がどうしていくかっていうのを少し考えられたかなっていうことで、パネルディスカッションは締めたいと思います。

どうもありがとうございました。

/ありがとうございました。

/ありがとうございました。

 

 

 

司会/コメンテーターの皆さんありがとうございました。

ここまで病院からの地域生活の実現ということも含めて、自分の決めた場所で生きるというテーマで様々な観点からご報告を、事例のご紹介をいただきました。

改めましてご登壇いただいた皆様ありがとうございました。

 

では引き続きまして第2部に移りたいと思います。

2部では、私達介護保障ネットの活動を簡単にご紹介させていただきます。

また最近ですね、重度訪問介護の支給量を勝ち取った事例を四つほどご紹介させていただきます。

まずは、この9年間の介護保障ネットの歩みについて、東京の坂本千花弁護士よりご報告いたします。

坂本さんよろしくお願い致します。

 

坂本/皆さん、お疲れ様です。

私の方から簡単に我々、介護保障ネットの活動についてご報告させていただきます。

介護保障ネットと呼んでおりますが、正式名称は介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネットということで、全国ネットの弁護士が集まって、介護が必要な支給量を受けられるように活動をするというところです。

次のスライドお願いします。

次のスライド。

なぜごめんなさい1個前に戻って、ください。

介護保障とはということで、先ほどのいろんなご報告からも介護保障という言葉はありましたけれども、障害がある人でも、

> 

自分が住みたい地域で自分らしい生活を送るために必要な介護を十分に受けられるように確保する活動ということになります先ほども北海道の吉成さんの事例ですとか石川の事例ですとか非常にパワフルなお話を聞いてますけれども。

何と言っても地域に出たいと思った方たちが地域で自立して暮らすためには、主に重度訪問介護になりますけれども、重度訪問介護には限りませんが、必要なサービスというものがきちんと確保されないとなりません。

で、弁護士がそんな活動をするのかと意外に思われる方もいるかもしれませんけれども、弁護士がその当事者の代理人として、その障害福祉サービスとしての介護給付必要なだけ受給できるようにするという活動です。

次のスライドお願いします。

なぜそういう活動が必要なのかというところですけれども、そもそもですねヘルパーの介護を受ける権利、もっと言うとヘルパーの介護を受けて地域で自立して、自分の住みたいと思うところで誰と住みたいかと、自分で選んで暮らすという権利は当然に認められる権利ではあるんですけれどもなかなかその支給決定ですね、何時間支給するのかというのは行政の裁量に委ねられているというところがありますので、本当に24時間必要だと思っていても、そう訴えていても、なかなか支給されないという事例がありますので、介護保障ネットの活動が必要になってくるというところです。

すみません13ページに飛んでください。

ちょっとスライド、時間の関係で、ちょっと本当はいろいろ伝えたいところがあるんですが、ちょっと割愛させていただきますよろしいですかちょっと運営サイドよろしいでしょうか13ページに飛んでください。

介護保障ネットは平成24年の11月に発足いたしました。

はい、これですね、なぜかというと、全国各地で介護保障を実現するということです。

どういったことをするのかというと、端的に弁護士がご本人の代理人となって、あと支援者、もちろんご本人とも力を合わせて行政と交渉するというところです。

次のスライドです。

どのような活動をしていくかというと、当然ですね、行政に支給の申請をして、あなたには何時間支給しますというふうに決定が出された場合には、それに不服だということで争うとなると、本来法律上は審査請求という不服申立制度を利用したうえで裁判ですね、裁判をするということになるんですけれども、非常に時間もかかります。

筋ジスの方とALSの方、病状が進行していくという方もいらっしゃる中で、何年もかけて裁判をするというのは非常に得策ではないというところもありますので、もう申請をする段階で、ご本人の代理人として弁護士が行政と交渉するというスタンスを取ります。

ですからもう、不足する支給量を受けてから裁判で争うというのではなく、もう支給決定を受ける段階で十分な活動を支給量を得られるように、もう最初から活動をするということです。

次のスライドお願いします。

ようやく今年の9月、この1011月で9周年を迎えます。

50名以上の方を支援してまいりました。

9月末の段階で56名になるんですけれども多数の方を全国各地で支援をして、47都道府県全てで124時間ですね、マックス24時間の支給量を得ております。

一昨年は東京都江戸川区、なかなかハードルが高かった自治体でも支給量を獲得をしております。

次のスライド。

次の次のスライドお願いします。

一部個人名も出しているところがございますけど、はいこれですね、一応9月末で56人の方を支援しておりまして24時間の実現をしている方も結構おります。

後ほどですね個別の事例をちょっと4件ほどご説明させていただきますけれども、現在交渉中の案件も5件ほど、6件ほどあるというところです。

次のスライドをお願いいたします。

はい具体的にどんな活動するのかというとですね、基本的には重度訪問介護の支給申請をした方であればおわかりかと思いますが、基本的に表裏1枚の申請書というものに手書きで書いて出すというようなものが行政手続き一般的なんですけれどももうそれだけだとその方の介護の必要性がなかなか伝わらないということで、事前に、もう支給申請をする段階でいろんな資料を出します。

例えばですねヘルパーの介護日誌、夜間帯にどんなことをやってるのか、もう本当に間断なく本人に対して支援をしているということがわかるような介護日誌ですとか、写真動画ですね、例えばベッドから車椅子に移乗する場合にどれだけ大変なのかですとか、移動をするとき、外出をするときにどのくらい大変なのかとか、体の向きを変えるときにヘルパーさんが1人でやるのは難しいとかって言ったようなことを伝えるために実際に動画を撮ったりします。

それからなかなかご協力いただけるドクターを探すところから苦労することもあるんですけれどもDrに、やっぱりこのかたには24時間必要だと。

夜間帯も1時間2時間放置をするということ自体も危険なんだというようなことをDrから、少し意見書なり診断書なりという形で提供していただけると、非常に心強い資料になりますので、こういったものを取り付けたりして。

あとヘルパーさんも実際にどんなことやってるのかっていうのを弁護士が文章、お話をお伺いしたものを文章にまとめて行政に伝えるというような形で弁護士がこういう資料作りをして、とにかく介護が必要なんだということを伝えるという活動をしております。

次のスライドお願いします。

あとはその実際にヘルパーさんがどういうことをやっているのかということだけではなくて、やはり理論面ですよね。

法律上障害者総合支援法はどういうふうに解釈をするのかということも、一応弁護士ですから法理論についても伝えていきます。

細かい内容ちょっと前半のスライドは省略させていただきましたけれども、ご家族がいる、家族がいるんだから、同居している家族がいるんだから、その分は重度訪問介護を1日6時間くらいは家族がやれるからいらないよねとか言われてしまいます。

あとは非常に難しいところとして見守っている時間ですよね、重度訪問介護っていうのは、何かあったときにすぐに支援ができるようにご本人を見守りするという時間も当然介護として必要な時間だと認められるべきなんですけれども、そこがなかなか、ヘルパーさんが実働している時間、排泄解除ですとか着替えとか体位交換とか、実際に実働している時間以外は、重度訪問介護はいらないんじゃないかというふうに算定されてしまうことがいまだにありますので、本来の重度訪問介護の支給決定する上での理論武装ですね、法律上どのように考えるべきなのかというようなことを権利条約にさかのぼって改めて行政に説明をするというような活動もして、なるべく必要な方に必要な支給量を届けるという活動をしているのが我々介護保障ネットということになります。

私の説明はこのくらいにして、あと細かい具体的な事例の方は、別の弁護士にお譲りしたいと思います。

以上です。

 

/坂本さんありがとうございました。

続きまして、介護保障ネットにご依頼のあったケースで、弁護士が関与して、重度訪問介護の支給量を獲得した四つの例について、全国各地の弁護士からご報告します。

初めに東京の弁護士の幡野さんよろしくお願いします。

 

幡野/東京都立川市で弁護士をしております。

幡野と申します。

よろしくお願いします。

私から、担当させていただいたケースで、施設入所中の方が、もともと施設に入る前に住んでいた自治体に戻って一人暮らしを始めたいということで、相談のあったケースで、無事に地域に戻ることができたというケースがあったのでご報告をさせていただきます。

今表示されている資料は、弁護団一同と書いてありますが、私の他に、同じ事務所、立川にある多摩パブリック法律事務所という事務所に所属していますが、同じ事務所の竹内弁護士と、あとは群馬の下山弁護士、あとは23区で弁護士をしている紀尾井町法律事務所の大野弁護士、採澤先生、藤岡先生が弁護団として関わっています。

どういう方が、ご依頼者だったかなということですが、ご紹介しますが、依頼者は50代の男性の方でして、身体障害者手帳1級を持っている方です。

出生時に脳性まひを患っていってアテトーゼ型という不随意運動が生じてしまうタイプの脳性まひです。

これを発症しておられました。

加齢とともに四肢麻痺と体幹機能障害が悪化していって小さい頃は歩けたりもしていたのですけど、三、四十代ぐらいになるとかなり厳しい状態だったとお聞きしています。

ご両親と元々住んでいました。

お母さんが、介護を主に担って、在宅生活を続けていましたが、お母さんが認知症になり、長期入院することになりました。

お父さんもお仕事の関係でずっと外出をしていたタイプの方で、お母さんが入院後にお父さんが頑張って介護をしようとしたんですが、うまくいかなくて。

そういう経過で施設入所がいいのではないかという話になりまして、40代の頃にが施設入所となりました。

現在、お父さんとお母さんは他界されて、ご兄弟は弟さんがいらっしゃいますが、遠方に住まわれており、弟さんによる介護は期待できないというような状況です。

この方が入所した後に体調がどんどん悪くなってしまった経過がありました。

誤嚥性肺炎を繰り返し、嚥下機能も落ちてしまい、胃ろうを造設したということがありました。

あとは、喉頭気管分離術といって、自分の唾液もむせてしまうようなくらい嚥下機能が落ちてしまったので、永久気管孔をクビに穴を開けてそこから呼吸をする。

口は食道に繋いで、気管を確保したという手術をしました。

そのために、言語機能化、障害されています。

言葉を喋ることができなくなってしまい、そういう状態であります。

脳性麻痺の影響で、身体中がしびれたり痛くなったりするのがあって、ボトックス療法を受けています。

3ヶ月に1回程度、病院に通院してボトックス注射を受けているという状況でした。

それ以外にもいくつかの病院に定期的に通院されていらっしゃると。

この方、入所中に、お喋りが好きな方で文字盤を利用したコミュニケーションを取る方ですが、文字盤を利用してコミュニケーションをとるのは時間がかかるので、施設の方が、なかなか時間をかけてゆっくりお喋りをしてくれないということがあって、ご本人としては、マンツーマンでじっくりと自分のために介護してくれるというような環境がいいということで、施設から地域に移行したいという希望を持つようになりました。

この方は外出が好きなかたで、施設に入る前は、海外旅行とかにも積極的に行っていた方で、施設から出て、外出をいっぱいしたいという希望を持っていた方です。

相談がそれでありましたが、弁護団の方で、役所に対して申請をして、決定が出たところまでまず申請まで準備をいろいろしました。

本人や施設職員に介護の方向とか聞き取りをして、あとは、資料収集ということで市役所に対して、過去に本人が市役所に提出していた資料等個人情報開示請求をして、資料の取り寄せを行いました。

あとは本人が関わっていた病院がいくつかありまして、複数の病院からカルテを取り寄せました。

どのお医者さんから意見書を書いてもらうのがいいのかという検討も行いました。

こういったカルテを集めたり、市役所に対して、個人情報開示請求をしたりして検討した結果、このお医者さんに相談して意見書を書いてもらうのがいいというのを決めまして、主治医の先生に面会を申し入れて、意見書の作成を依頼しました。

このケースだと意見書の作成がかなり充実したものになりまして。

主治医の先生はかなり地域移行に理解のある先生というか、かなり協力的に携わってくださる先生で、その下のところに書いてあるんですが、このケースは、月1,488時間の支給量の申請をしたんですね。

これは、常時2人介護が必要だということで、1,488時間という計算結果になっていますがこれは主治医の先生が、これは常時2人介護が必要だという意見書をバシッと書いてくれたのでその意見書に乗ってこの支給量を申請することができたということになります。

主治医の先生の面会、意見書作成依頼の他に、そのケースだと、宿泊体験というのを行いました。

CILの所沢が携わってくださっていたケースですが、一泊2日で、CILの施設を貸してくださいまして、実際に本人とヘルパーさんで宿泊体験をするというような体験をしました。

宿泊体験中弁護士も立ち会って、基本的には動画をちょっと回して撮影をしたり、そのときに介助を担当したヘルパーさんから聞き取りを行いまして、介護するときどんな注意点があるのかとか、一つ一つの介護をするときにどのくらい時間がかかっているのかとか、そういうあたりをなるべく詳細に聞き取ると。

夜間は弁護士の立会いが出来なかったので、その間はヘルパーさんに介護記録をつけてもらいました。

そういうことでこの12日の宿泊体験を申請に向けて、記録化するということをやりました。

記録としては、介護記録と写真撮影報告書として記録化しましたが、そういった調査や聞き取りとか、あとは、記録作成を通じて、申請書類を作成しまして、月1488時間の支給量の申請を行いました。

医師意見書が充実したものになったので、この支給量の申請ができたと先ほど申し上げましたが、理由として、医師の意見書であげてくださったのは、骨折のリスクがある。

つまり、脳性まひの方で、生まれたときから運動が十分にできていないということで、骨が必ずしも強くないということで、骨折のリスクがあると。

骨折しないように介助するには、2人介助があった方がいいとか。

あとは、永久気管孔があることで、入浴時とか、通常時首の穴の気管孔側がふさがらないようにしないといけないということで、胃ろうもあるんですがそのチューブが抜けないようにしないといけないとか、そういうことの他に、あとは疼痛がある方のその疼痛のケアをしなければいけないということを項目立てて詳細に意見書を書いてくださいまして、あとは、声出せないので、何かあったときに周りが気づかなければいけない。

あとは、実際この方は入院していたことがあったんですが、入院時にも実際病院でも、基本的には2人介護体制を敷いていて、二人いないときでも、モニタリングは常にしていたということも書いてくださいました。

これで1,488時間の申請を出しましたが、この後、役所との交渉も申請後もしました。

結論というか、役所からの回答としては、1日あたり22時間の、支給量の必要性は認めますと、それに加えて、入浴時と排泄時には2人の介護が必要だと。

これが役所の計算基準に基づくと、月77時間という計算になるんですけども、この合計759時間。

これを支給決定するということで連絡がありました。

加えて同行支援120時間が加わりますので、結論としては、879時間ということで、決定が、出るんですが、そういう回答がありまして、弁護団としては24時間の介護を目指していましたので、追加の意見書を出して、交渉をしたんですけれども、結論としては、役所が最初回答した結論になって、この資料を作成した後、支給決定が出たというような経過になります。

それで、この資料を作成したのは9月末ごろだったと思いますが、ご本人は10月下旬ごろに在宅生活を始めることができました。

まだ私の方でおうちに行ったりはできていないんですが、今月中にご自宅の方に行って、本人とまたお話をする予定でいます。

それで、弁護団としては、24時間かける31日というところが、認められなかったところは課題で、今後どうするかという検討になると思いますが、744時間を超える支給量は認められたということで一安心はしているところです。

本件の感想ですが、一つ目の個人情報開示請求で感じた課題、これは本人の個人情報開示請求をするときに、役所が公開しているホームページでは、代理人がついているときに委任状に自分の名前を自署しなければいけないということが記載されていたんですね。

ご本人は、障害のために文字が書けない状態でしたので、自署した委任状がないとだめだというのは、対応できないということで、役所に電話をして、相談したことがあったんですが、その電話連絡の段階では、障害のために自署ができないということであったとしても、自署での委任状が必要だという案内で弁護団としても、構えたということがありました。

本人の委任の意思があるんだというのを示すために委任状を代筆して作ったわけですが、代筆するときのビデオを撮って、本人に私にこういう件を依頼することでいいですかと聞いて、本人がはいと言っているところを動画で撮影してDVDに焼いて添付して、個人情報開示請求をしたということがありました。

そもそも論、個人情報開示請求は、自署によらなければならないというところが若干疑問ではあるので、こういう課題が、自治体によってはあるんだなというところが、感じたところが1点目で、2点目は医師との連携の重要性ということですが、これは。

先ほど申し上げた1,488時間の支給量先生申請ができたので、今回の医師の先生との協力があって、こういった活動ができたところもあったのでその重要性は感じました。

宿泊体験の有益性はかなり資料としては、厚みのあるものになりまして、我々としても、本人にどんな介助が必要なのかが深く理解できたので、宿泊体験を積極的にやってよかったと感じました。

こういった件があったのでご報告させていただきます。

私からは以上です。

ご清聴ありがとうございました。

 

司会/ありがとうございました。

続いて、名古屋の加藤さん、弁護士の平野さん、よろしくお願いします。

 

平野/弁護士の平野です。

今日は加藤さんご本人さんも参加されているので、私からは概要、ケースの概要を簡単にご説明して、加藤さんに思いを語っていただけたらと思います。

よろしくお願いします。

加藤さんは、ヘルパー事業所の代表を務めています。

同じマンションにおうちと事業所があるという生活をされています。

脳性麻痺ということで、お体を動かすことが自分で動かすことができないという状況にある方です。

ただ、大学時代から一人暮らしをされていて、今も一人暮らしを継続されていて、非常にアクティブでブログをすごく更新されたり、スポーツもやられたり、テレビにも出たり、非常にアクティブでリア充な方だなという印象の方です。

レジメにもありますが、もともと715時間の支給量を得られていたんですが、役所の担当者から財政難を理由に下げますと、介護支給量を下げますということを言われて困って介護保障ネットに繋がられたというような経緯とお聞きしております。

今回775時間申請しまして、775時間そのまま認めていただいたんですけれども。

ポイントとしては、やはり役所の担当者が最初に言った通り、夜は飛び飛びでしか介護の必要性が認められないというところ。

そこ、どう乗り越えるかということと、あとはお手洗いですね、トイレ介助は2人介助で、普段、加藤さんはやられていて、一人目のヘルパーさんが帰る15分前に二人目のヘルパーさんに来てもらって、その15分については、自費負担でやられていたというようなことだったんです。

その15分で、排便のタイミングを合わせるのは非常に厳しいんじゃないですかという話で、もう少し幅を持たせて申請をした方がいいんじゃないかということで、一時間という幅を持たせたんですね。

1日一時間という幅でしたがそれでも大変なんじゃないかと、生理現象なので時間がずれるというところはあるんですけれども、まずは一時間で2人介助を認めてもらおうということで、775時間の申請をいたしました。

ポイントとしては、加藤さんのヘルパーさんに介護記録をつけていただきました。

夜間の介護は飛び飛びでは困ると、随時介助が必要ということをとにかくわかってもらうために介護記録をつけていただいて、その詳細な記録のおかげで、介護の実情が伝わったんじゃないかなと思っております。

申請書にも、そういったところをかなり盛り込んで書いていきましたので、調査が、いつもは20分ぐらいで簡単に終わってしまうものが、その調査も一時間ほどじっくりあちらからも、役所の担当者からも質問が出る感じでじっくり見ていただいたかなと思います。

トイレの介助を2人でやっていただいているところも見ていただきましたし、夜間の随時介護が必要というところを説明をヘルパーさんにしていただきながら、伝えられたかなと思います。

ヘルパーさんと加藤さんとの息がぴったり合っていて、ヘルパーさんも調査で伝えたい趣旨を非常に理解してくださっている方が担当してくださったので、説明しながら、必要なんですよと、こういう調査が必要ですということをしっかり伝えていただきながら、現場の場面を見せていただけたので、役所の担当者に、非常に上手く伝わったんじゃないかと思っております。

加藤さんこんな感じでよろしいでしょうか。

加藤さんお願いします。

加藤/

ありがとうございます。

皆さん初めまして、名古屋の加藤啓太と申します。

僕には言語障害がありますので、同じ会社のスタッフの青木に通訳していただきます。

ちょうど1年前になりますが、役所の担当が、電話をかけてきて、コロナで名古屋市の財政が厳しいので、障害者の方々の時間数を減らしています。

ということを言われてその後、名古屋の大きな法人の人に今、名古屋の障害者の人たちは、時間数を減らされていますかといろいろ聞いてみました。

ところが他の人は減らされてないと言われました。

だから、これは戦わなければいけないと思って。

介護保障ネットにご連絡しました。

弁護士さんのご指導のもと、細かく介護記録を書くことを教えていただいて、時間数を取ることができました。

改めて思うのは、自分に必要な介助を自分自身で自分の必要な介助をどこまで把握できるかが大きなポイントだと思いました。

特に僕は、医療的ケアを受けていないので、なかなか時間数を取るのは難しいと思いました。

でも、夜中の寝返りが頻繁にあるということを役所の方に伝えることができました。

だから時間数が取れたのだと思います。

時間数が取れて、自分の生活が困らなかったのは本当に良かったです。

ありがとうございました。

これで私の報告を終わらせていただきます。

 

司会/加藤さんありがとうございました平野さんもありがとうございました。

続いて、東京の弁護士の佐々木さんお願いします。

 

佐々木/弁護士の佐々木です。

東京都2360代の方についてご紹介します。

ご本人は50代でALSを発症しました。

現在の症状は足の指先と、顔の一部だけがわずかに動かせる程度で、他は全く動きません。

呼吸機能は年々低下していて、医師からは何年も前から気管切開して人工呼吸器の装着が必要と言われていますが、現在も自発呼吸をしています。

何とか声によるコミュニケーションはできますが年々伝わりにくくなっていて、近年、顔に耳を近づけてと、ようやく聞き取れます。

ご本人には配偶者とお子さんがいますが、ご自身の家族は自立した生活を営むため離れたところで生活しています。

私達は最初に支援に入ったのは平成28年初め頃でした。

弁護士が入るまではわずか462時間115時間ほどしか認められませんでした。

平成28年、29年と変更申請を行いましたが、思うように時間が伸びず、平成30年には支給量変更申請を行いました。

この時点でご本人は支給量で賄えない部分について月5万円自己負担でヘルパーを頼みました。

また訪問看護の時間はヘルパーの時間を削りできる限り家に1人になる時間がないように努めました。

それにもかかわらず、毎日1時間以上の人が家に1人気になってしまう時間が発生してしまっていました。

先ほどお伝えしたようにご本人は完全に寝たきりの状態で、足の指先と顔の一部しか動かすことができません。

このような中、毎日家に1人になる時間が1時間というのは常に死と隣り合わせの状態です。

ご本人が毎日感じている恐怖と不安は並大抵のものではありません。

私達はご本人の危険な状況わかってもらおうと張り付きといって、丸1日ご本人の介護の様子を撮影させていただいてその様子を細かく説明した書面をつけることも行って、3度目の支給量の変更申請も行いました。

それでも区は、ご本人の不安は単なる不安感にすぎないなどと言い、支給量はわずか572. 5時間、119時間にとどまりました。

そこで私達は決定に対する不服申立てとして東京都へ審査請求を行いました。

審査請求の審議の中では、都庁での口頭意見陳述を行いました。

コロナ禍であったためご本人が出席できなかったのが残念でした。

その結果令和33月。

東京都の決定として現処分を取り消すという裁決が出ました。

裁決の内容としては区の支給量の決定に際し、適切な事実の勘案が行われたとは言えないとして、実体法上の違法が認められました。

また申請の一部拒否処分に当たるにも関わらず決定に際して区が理由を記載しなかったことについて、行政手続法に反するという点の違法も認定されました。

審査選挙を行ってから取り消し裁決が出るまでに実に2年半近くかかりました。

これを受けて平成30年の支給量決定が取り消されたのですが、区は簡単な理由をつけた上で再度平成30年当時と同じ時間数で支給量決定を出してきました。

これに対して何かアクションを起こすか検討しましたがもう過ぎてしまった部分の支給量の内容について争うよりも、これからの支給量変更申請で時間数を多くすることに注力する方針となりました。

そこで今年の更新時に再度支給量変更申請をし、弁護士による意見書提出、勘案の立ち会いなどを行いました。

そうしたところ区から、介護者不在の時間をなくすために支給量の時間数を大幅に増やして出したいとのお話があり、重度訪問介護、介護保険、訪問看護の時間数、合計で774時間が出ることになりました。

介護保険などの時間数と併せてにはなりますが、124時間介護者がいられるように時間数が確認された上での決定であったため、審査請求の結果は今回の支給決定に反映されたのだと思います。

ご本人の生活に最低限必要な24時間の支給量が出るまでに、足かけ5年かかってしまいました。

ご本人が1人で過ごす不安な時間はなくなり、今はひとまずほっとしています。

以上駆け足になりましたが、ご報告でした。

ご清聴ありがとうございました。

 

司会/佐々木さんありがとうございました。

それでは最後に福岡の國府さんお願いします。

 

國府/福岡の國府です。

私の方からは今年の5月末から、6月あたりまで。

の事案を紹介します。

福岡県にあるとある街です。

地方の町で人口もそう多くありません。

そちらで一人暮らしをされることになった50代の女性がおられました。

その方は10歳の頃に関節リウマチと診断されて、ずっと寝たきり状態で過ごされる。

そして40歳ぐらいまではずっと自宅でご家族や家政婦を雇われて、支援をされて生活されていました。

ただ、だんだんご家族が高齢になってきたので、これまでお母さんがかなり支援をされていたんですけれど、高齢の母親にはこれ以上頼れないということで、一人暮らしをしようと、そして一人暮らしをして、母には頼らず生きていくと決意されました。

実家の隣にある町で一人暮らしをすることにして、地元のCILの支援を受けて、転居先の町と交渉されて始めていたんですけれど。

転居する今年の61日の直前に、お母さんがお亡くなりになられたんですね。

そういうこともあってご本人がかなり落ち込まれて精神的に厳しいと。

何も手がつかないという感じになっていたので、そういうことでもともとCILが自前で交渉しようということだったんですけれど、ご本人が、ちょっと落ち込んでいるということもあって弁護団が、交渉の代理をしてお手伝いしようということで、弁護団が入ることになりました。

受任以降の動きですが、528日に弁護団を募ってほしいということで、受けられませんかと打診がありました。

福岡は障害問題弁護団という個別の事例に取り組む弁護団があって、弁護士が12名、メンバーにいるんですが、誰かしら受けれるやろう、少なくとも私は受けられるしということでやりますと受けて、翌日にはメンバーを決定しました。

61日に本人が一人暮らしをスタートしました。

この時点では、重度訪問介護は280時間だけ出ていた。

前住んでいた市で受けていたサービスの利用量をそのまま引き継ぐ形で出ていました。

週末に、65日に初回の打ち合わせをしました。

この時点までに、CILは役所に提出した1日の介護の流れの細かく書いた資料を事前にいただくのと、関節リウマチがどういうものなのかを調べたり、そういう下調べをして臨みました。

そしたら69日に役所が本人の自宅で勘案事項調査をするような話になっていたので、このときに弁護団が立会いをしなきゃいけないし、何もせず、69日を迎えるわけにはいかないと思ったので、受任のご連絡で受任の通知をそのときにしようと思って、そこにご本人に、いかに24時間必要かというのを書いたペーパーを突貫工事で、7ページぐらいのものなので、なんとか準備できたんですが、それを説明する文書を作ってプレゼンテーションをしたと。

そこで重度訪問介護としては674時間、介護保険を利用されているので、それと合わせて124時間になるように計算した数字で請求をしました。

614日に役所で協議が何か行われました。

いろいろお話を聞かれたんですね。

その618日は重度訪問介護674時間の支給決定が出ました。

ただこのときの支給決定には3ヶ月に期間を区切ったもので9月にはまた期限が来ちゃうというものでした。

なんで9月までなんやろうと、3ヶ月に区切った理由がわからなかったので個人情報開示請求をして資料を取り寄せてみると、本人のお母さんがお亡くなりになって、今は心理的に不安定な状況であることとか、町に転入して間もないので支援の経過や状況を十分に把握できていないので、継続的に検討が必要と考えると、担当課の方から意見を出していたので、3ヶ月の期間が区切られていたということになります。

その後、9月になったら翌年、来年4月までの決定で、同じ時間が出ました。

それは、支援区分の8時間満了時期に伴ってということなので実質期間が区切られることはないと思うんですけど、まだしばらく見守りを続けるということで、弁護団としてはガッツリ関わったという感じではないですけれど関わって24時間の成果が得られたという事案です。

以上です。

 

司会/國府さんありがとうございました。

事例報告は以上です。

そのほか介護保障ネットのか、弁護士が担当した過去の事例は「支援を得て、わたしらしく生きる!」という山吹書店から発刊の書籍で詳しくご紹介していますのでお買い求めください。

介護保障ネットのホームページでも24時間介護を獲得した成功事例をいくつか紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

それでは最後に介護保障ネットの共同代表である藤岡毅弁護士より閉会の挨拶をいたします。

 

藤岡/まず、シンポジウム冒頭配信の不具合ありまして、開始が25分ほど遅れ、終わりも30分ほど遅れまして、皆さんにご迷惑をかけたことを、主催責任者として深くお詫び申し上げます。

予想を超えたアクセスが集中したということで、嬉しい悲鳴ではあるのですが、読みが甘かったということで反省しております。

今日は皆様、長い時間のご視聴本当にお疲れ様でした。

今日取り上げられた入院生活をされている重度の障害のある人は、障害者総合支援法の療養介護という障害福祉施策を利用されている方です。

国の統計では、今年7月の療養介護利用者は全国で2870名いらっしゃいます。

この数字は病院以外の重症心身障害児施設の利用者の方も一部含まれている数字のようです。

この制度を利用することで救われた方も少なくないでしょう。

しかしその多くは、退院して自分のもともとの馴染んだ地域で生活することはなく、一生涯を病院施設で過ごされます。

もちろんそこで満ち足りた生活を送っていると考える方を一概に否定することはすべきではありません。

しかしながら、今日報告のあった大分の押切真人さん、札幌の吉成亜美さん名寄の岡田彩夢さんなどのように重度訪問介護という制度を利用して地元で普通の生活を送るという。

選択肢について皆さんイメージを持てないまま、自分は退院できない、あるいは周囲の人がこの人は退院できないと考えている場合も多いのではないでしょうか。

今日のシンポジウムの報告は私自身とても刺激を受けました。

今日のシンポの動画は、当会のホームページにアクセスしていただければいつでも再生して視聴可能な状態にしておきますので、今日のシンポに、いいねと思った方はぜひ周囲の方に教えてください。

様々な形で、ぜひご活用ください。

最後まで視聴いただいた皆様に感謝申し上げます。

また当会シンポに全面協力していただいた筋ジスプロジェクトの関係者、当事者の皆様に改めて感謝申し上げます。

では、来年の今頃、介護保障ネット10周年シンポでまたお会いしましょう。

ありがとうございました。

 

/以上をもちまして介護保障ネット9周年シンポジウムを終了いたします。

長い時間に渡りご清聴いただきありがとうございました。